小説『ゾルダーテン』chap.02：入隊01
三本爪飛竜騎兵大隊庁舎、総隊長執務室。
騎兵隊長と歩兵隊長の言い合いを、総隊長・天尊は欠伸をしながら眺めている。
話題の渦中は本日付けで正式に入隊した異例の新人・ビシュラだ。本人のいないところでトラジロとヴァルトラムは好き勝手に盛り上がっている。
「ビシュラは歩兵隊に入れる。俺が引っ張って来たんだ、当然だろうが」
「何を莫迦なことを。戦闘経験の無いビシュラを歩兵隊に入れる訳にはいきません」
「騎兵隊でも戦闘することには違ェねェだろうが。どっちに入れたって変わりゃしねェ」
「変わります。騎兵隊と歩兵隊じゃ近接戦闘の機会が段違いです」
「飛竜にも乗れねェヤツが騎兵隊か。笑わせやがる」
ヴァルトラムが鼻で笑ったのを、トラジロは待ち構えていたかのようにハッと更なる嘲弄で返した。
「ヴァルトラムは適材適所という言葉を知らないようですね」
「あァ？」
「ビシュラは戦闘は素人、しかしデスクワークではウチで誰よりも有能でしょう。これ以上に力を発揮できる仕事など無い。ウチで事務方をやっているのは騎兵隊です。アンタたち歩兵隊が事務処理をやったことがありますか」
「紙キレさばくのは俺たちの仕事じゃねェ」
「アンタたちが仕事しないのは今に始まったことではありませんが、人の仕事の邪魔だけはしないでください。ビシュラの能力を有効活用できるのはアンタではなく私です、歩兵隊ではなく騎兵隊です！ ビシュラだって自分の能力を発揮できる部署で働きたいに決まっています。此方の都合で合わないところに無理矢理連れてきたのですから、せめて少しでも適したところに配置するのが上司の務めでしょうがッ！」
総隊長執務室前の廊下にはビシュラと緋が立っていた。
ビシュラは庁舎に出勤するなり待機するように言われた。天尊とトラジロ、ヴァルトラムの三人はそれきり執務室の中に籠もってしまった。
ビシュラは勿論廊下に立っていろと指示された訳ではないが、三人の話が済めば少しでも早く総隊長である天尊に挨拶をしたいからということで此処で待っている。
先程から扉一枚隔てた室内からトラジロ怒声が漏れ聞こえてくるから、ビシュラはオロオロと心配そうにしている。
「あの、これは、大丈夫なのでしょうか？ トラジロ騎兵隊長さまがとてもお怒りのようですが」
「トラジロが怒鳴り声を上げるのは珍しいことじゃない」
「わたしが此方にやってきたのはやはり御迷惑だったのでは」
しゅんと肩を落としたビシュラを見て、緋は溜息を吐いた。
「お前は、自分で選んだんだろ？ 自分で正しいと信じて行動したんだろう。だったら人の迷惑なんか気にするな」
腕組みをして廊下の壁に背中から寄り掛かり、フッと笑った。
「アタシのほうこそ余計なことをして迷惑だと恨み言を言われるかと思っていたぞ」
「余計なことなんてそんな」
「丸く収まったとはいえお前を傷付けた歩兵長に手を貸したんだからな、お前に泣かれて恨まれても仕方ないと一応覚悟はしていた」
ビシュラは緋の前に立ち、緋の顔をじっと見詰める。
意志の強そうな凛々しい眉、すぐに表情を険しくする眉間の皺、だが三本爪飛竜騎兵大隊にいる間中、誰よりもビシュラの味方をしてくれた。ビシュラの為に怒り、ビシュラの為に叱り、ビシュラの為に行動してくれる優しい人だ。
「フェイさんはわたしの為にそうしてくださったのでしょう？」
もしもビシュラが、ヴァルトラムに恋をしていたと告げなければ緋が手を貸すことは決して無かっただろう。
ビシュラが恋い焦がれていると言ったヴァルトラムがビシュラを望んでいると気付いたとき、そこにビシュラが幸福になる一縷の望みを見出した。これ以上無いというほど蹂躙されて傷付けられてこの世の淵にいたビシュラを救い出す手段があるとしたらそれしかないと思った。人の世への絶望と己への失望で呪いに囚われていたビシュラを助けてやりたかった。
この世界がお前にとって厳しく辛いものだなんて諦めて欲しくなかったんだ。
「ヴァルトラム歩兵隊長さまとフェイさんが来てくださらなければわたしはずっと《観測所》にいたでしょう。わたしのような者は彼処以外に居場所は無いと思っていましたし。あのまま彼処で……ヴァルトラム歩兵隊長さまに望まれていると知ることもなく、生涯自分を呪ったままだったと思います」
「お前は何も悪くないぞ、ビシュラ。歩兵長のワガママに振り回されただけだ」
「フェイさん、わたしを迎えに来てくださって本当にありがとうございました」
ビシュラは花のようににっこりと微笑み、難しかった緋の表情もついに綻ぶ。
この子が心から笑えるようになって本当に良かった。
着ている物を剥がれ尊厳を刮ぎ落とされ持ち物もなく裸足で突っ立って、残りの人生を悔やんだまま泣きもせず心を殺して死んでいくなんて羽目にならなくて良かった。
「あれ？ ビシュラちゃんじゃねェの」
フレンドリーな間の抜けた声。声の主は勿論緋には直ぐ分かったが、ビシュラはきょとんとして其方に顔を向ける。
廊下に二人が立っているのを見付けたズィルベルナーが寄ってくる。
「派遣終わって帰ったんじゃなかったっけ？」
長身のズィルベルナーは腰を折ってビシュラに顔を近付けてくる。
「ビシュラは正式にウチの隊員になった」
「ハッ？ 《観測所》のヤツだろ？ 戦えんの」
「それは今から仕込む」
「今からァ？ 何ソレ」
ズィルベルナーは素っ頓狂な声を上げて頭の位置を通常の高さまで引き戻した。
「あ、あの、こちらの方は」
ビシュラは緋に小声で訊ねた。
ビシュラは派遣期間中トラジロの補佐をする為に行動の大部分を共にしていたが、他の隊員がビシュラに接することを彼が意図的に避けていた為にほとんどの隊員とは面識がない。
彼は無法者ばかりの隊員たちの中に若い娘などトラブルの種だと判断したのだ。その読みは大当たり、ヴァルトラムという予想以上にかなり大きな魚を釣り上げてしまった訳だ。
「騎兵隊二位官のズィルベルナーだ」
「二位官殿っ？」
ビシュラは慌てて深く頭を垂れた。
「これは御挨拶もせずに失礼致しました。本日付けで三本爪飛竜騎兵大隊に配属となりました、ビシュラで御座います。先の派遣期間では二位官殿に御挨拶もできずに申し訳御座いませんでした。《観測所》での勤務も一年足らずの若輩者で御座いますが皆様のご迷惑とならぬよう精進……」
「そんな堅苦しいのいいよ～。俺はビシュラちゃんのこと知ってっし」
ズィルベルナーは畏まるビシュラにパタパタと手を振ってみせる。ビシュラを指差して緋のほうに顔を向ける。
「つーか何でビシュラちゃんがウチに配属？」
「歩兵長が直々に引き抜いてきた。何か文句あるか、ズィルビー」
「へぇー、じゃあ今から鍛えるっつってもそこそこの見込みはあんだな」
「それはどうだろうな」
ズィルベルナーはビシュラへと顔を引き戻した。細い顎を人差し指で支えてクイッと上を向かせる。
「さぞかし美味いんだろな♪」
「やめとけズィルビー。どうなっても知らないぞ」
キョトンとしているビシュラへとズィルベルナーの顔が接近してゆく。
人の忠告には耳を貸したほうがよいのに。ズィルベルナーの浅はかさに緋は溜息を吐いた。
バターン！
ズィルベルナーの唇がビシュラのそれにあと数センチで触れるというところで執務室のドアが勢いよく開いた。
ビュオッ。
何かが空を裂いて直進してくる音。
ズィルベルナーは反射的に素早く顔を退いた。
ビィィイインッ！
大きなナイフが目の前を通過して壁に突き刺さった。
ハラリと落ちる前髪が数本。
自分の身に何が起こったか瞬時に理解したビシュラ。ガタガタと震えながらギギギギと音がしそうなくらいぎこちなくドアのほうに顔を向けた。
「っ……いっいまっ、か、かすりました！」
「当ててねェだろ」
ナイフを放った張本人であるヴァルトラムはサラッと言い放った。
ナイフが命中しなかったのはヴァルトラムの腕のお陰なのかそれとも運の良さのお陰だったのか、ビシュラには分からない。
「俺には当てる気だったろ！💢」
「煩ェクソガキ。喋んな。ブッ殺すぞ」
「それが被害者に言うセリフかよ！」
ズィルベルナーの抗議などマトモに取り合わず、ヴァルトラムはガッガッと踵を鳴らして歩いて行ってしまった。
「随分ゴキゲンナナメだな、歩兵長」
緋はヴァルトラムの背中を眺め他人事のように言った。
「ビシュラを騎兵隊に取られたものだから拗ねているんですよ。少し思い通りにならなかったからといって周りに当たり散らすなんてデカイ図体して情けない」
「八つ当たりでナイフぶっ刺されたら堪んねェっつうの」
ズィルベルナーはヴァルトラムが歩いて行った方向へべーっと舌を出した。
実に子どもっぽい男だ。これで二位官の地位にいるとは信じがたい。
「ビシュラ。総隊長がお呼びです。執務室へ」
「はいっ」
いよいよこの時が来たかと、ビシュラは胸を押さえて大きく呼吸をした。
「この度は、カルディナルロート総隊長さまに御迷惑をおかけしまして大変申し訳御座いませんっ」
総隊長執務室へ入室するなり、ドアを背にビシュラは深々と頭を下げた。
ビシュラを部屋に呼び込んだ天尊のほうが少々虚を突かれた。
「何の謝罪だ」
「わたし如きが三本爪飛竜騎兵大隊入隊が叶うなど分不相応だと自覚しております。わたしの入隊についてはヴァルトラム歩兵隊長さまがかなり強引に押し通されたのではないかと……」
ああ、何だ、この娘は引け目を感じているのか。自身を過小評価することが得意で、過ぎるほど控えめなビシュラの性格を考えれば当然のことかも知れない。
「そうでもねェさ。トラジロもお前を欲しそうだったしな」
「トラジロ騎兵隊長さまがですか？」
「ウチは事務方が万年人手不足でな、そろそろその手の人員を入れないとトラジロが実戦に出る前に潰れちまうところだった」
天尊は椅子から立ち上がり、首や腰を曲げて筋を延ばす。トラジロとヴァルトラムの言い合いに長い時間付き合わされた所為だ。
何を決めるにしてもヴァルトラムは戦闘・戦術以外には無関心であり口出ししないから、いつもはそんなに時間はかからないのだけれど。
「確かにヴァルトラムが動かなきゃ本気でお前をウチへ引き抜こうとは思わなかったが、異動は正当なものだ。何も《観測所》に乗り込んで力尽くでお前を誘拐してきた訳じゃねェ。まぁ、ヴァルトラムはそのつもりだったかも知れないが」
「あのような騒ぎになってしまいましたが、所長とカルディナルロート総隊長さまはこれからも御懇意に……？」
「大した騒ぎじゃない。俺もイヴァンも、ヴァルトラムが出向いていってヒビ割れ数カ所で済んだのは奇跡だと思ってる。俺のほうにもイヴァンからお前を宜敷頼むと連絡が来た。お前が心配しているようなことにはならねェよ」
ビシュラはホッと胸を撫で下ろした。自分のような者がイーダフェルトを代表する機関の関係性を案ずるなど分不相応かも知れないが気を揉まない訳がなかった。
「俺はお前を歓迎する、ビシュラ」
天尊の微笑みを見てビシュラは緊張した表情を緩める。
「カルディナルロート総隊長さま……」
「正式に隊員になったからにはまずはそれをやめろ」
「？」
「ウチには俺をそう呼ぶヤツはいねェ。《観測所》の者じゃなく三本爪飛竜騎兵大隊の一員になったことを自覚しろ。俺はこの世に一人しかいねェお前の“総隊長”だ、違うか？」
今日から栄えある三本爪飛竜騎兵大隊の一員となったのだ。最早相応しいか相応しくないか、能力があるかないかの問題ではない。それはもう揺るぎない事実だ。能力が劣っていることを自覚しているならば、足る能力を身に付けるまで成長するしかない。
ビシュラは頭を下げた。
「はい、総隊長っ」
「いい子だ」
天尊はデスクの周囲をぐるりと周りビシュラに近付く。ビシュラの丁度真ん前まで来て、デスクに腰掛けた。
「俺は隠し事は好きじゃねェ。俺に黙っていることは無いか？」
天尊からの質問は意外だった。ビシュラはやや首を傾げる。
「お前のプロフィールを読んだが《回路》の回転数は並か、少しマシって程度だ。ネェベルの総量も決して多いほうじゃない。演算処理とプログラム解析のほうはまあまあってところか。にも関わらずヴァルトラムを行動停止させるほどのプログラムを発動させた。あのイヴァンが試験免除で《観測所》に引き入れる程の逸材なんだろう？ その割にはヤケに簡単に手許から離したのも気になる」
気配もさせず伸びてきた天尊の手がビシュラの顎を捕まえた。
「お前は何者だ？ ビシュラ」
天尊がデスクに腰を落としているから目の高さが近くなり、ビシュラは天尊の目を真っ直ぐに見詰めることになる。
何も映さない真っ白な瞳。見られているのか見ていないのか、生きているのか死んでいるのかさえもよく分からない。
嘘を吐いたら魂を抜かれるのではないか、そんな不気味さがある。
「わ、わたしは……総隊長を欺いていることなどありません。イヴァン所長がお目をかけてくださるのは、所長がとてもお優しい方だからで、わたしが格別優れているからという訳では……っ。プロフィールをご覧になったのならお分かりだと思いますが、わたしは何というかその、とても凡庸ですっ」
焦って早口になるビシュラ。天尊はニッと笑顔を見せた。
「そうか、ならいい」
「え……」
随分あっさりと頷かれて拍子抜け。もっときつい追及があるかと思ったのに。尤も、ビシュラは嘘など吐いていないので追及されても何も出てこないのだけれども。
意図的に天尊に隠していることがあるとすれば、自分が《四ツ耳》であるということくらい。それもイヴァンと懇意にしている天尊は既に聞いているのかも知れない。
「最初に言っておくが、ウチには女はお前と緋しかいない。騎兵隊と歩兵隊でお前とは別々だがアレは面倒見のいいヤツだから良くしてくれるはずだ。他のヤツはアテにならねェから緋を頼れ」
「わたしの所属は騎兵隊ですか？」
「不満か？」
「とんでもございませんっ。ただ、わたしは飛竜に乗るどころか見たこともありませんが……大丈夫でしょうか？」
「騎兵長のトラジロがお前を歩兵隊に入れる訳にはいかねェからと自分が引き取ると言い出したんだ、大丈夫さ。トラジロはお前に期待している」
天尊はビシュラの腰に手を回し、ぐいっと自分のほうに引き寄せた。よろけたビシュラは天尊の胸板にぶつかったが、すぐに上半身を仰け反らせる。だが天尊はビシュラを離さなかった。
「そ、総隊長……っ」
「トラジロも俺も、お前が戦えないことは承知の上だ。だがウチにはお前にやってほしいこともお前にしかできないことも山のようにある。そう自分を卑下するな」
耳のすぐ近くで低くて甘い声で囁かれると鼓動が早まる。異性に耐性がないビシュラにはこれは刺激が強い。顔に熱が集まっていくのが自分でも分かる。
「騎兵隊所属が嫌なら俺の副官にするという手もあるが」
近い近い近い！
唇が耳に触れそうなほど至近距離で甘く囁くのはやめてください、総隊長。
「総隊長の御命令なら従います、からっ……あ、あの、お離しくださいっ」
「それとも、俺よりヴァルトラムの副官がいいか？」
カーッと一気に真っ赤になって口をパクパクさせるビシュラの顔を見て天尊はクックックッと笑う。
これは絶対にからかわれている！
振る舞いは紳士然としているがビシュラの反応を見て楽しんでいるのだ。
新たな上司は敵ではないが純粋な味方でもなさそうだ。
ビシュラの展望は、前途多難。
Fortsetzung folgt.
騎兵隊長と歩兵隊長の言い合いを、総隊長・天尊は欠伸をしながら眺めている。
話題の渦中は本日付けで正式に入隊した異例の新人・ビシュラだ。本人のいないところでトラジロとヴァルトラムは好き勝手に盛り上がっている。
「ビシュラは歩兵隊に入れる。俺が引っ張って来たんだ、当然だろうが」
「何を莫迦なことを。戦闘経験の無いビシュラを歩兵隊に入れる訳にはいきません」
「騎兵隊でも戦闘することには違ェねェだろうが。どっちに入れたって変わりゃしねェ」
「変わります。騎兵隊と歩兵隊じゃ近接戦闘の機会が段違いです」
「飛竜にも乗れねェヤツが騎兵隊か。笑わせやがる」
ヴァルトラムが鼻で笑ったのを、トラジロは待ち構えていたかのようにハッと更なる嘲弄で返した。
「ヴァルトラムは適材適所という言葉を知らないようですね」
「あァ？」
「ビシュラは戦闘は素人、しかしデスクワークではウチで誰よりも有能でしょう。これ以上に力を発揮できる仕事など無い。ウチで事務方をやっているのは騎兵隊です。アンタたち歩兵隊が事務処理をやったことがありますか」
「紙キレさばくのは俺たちの仕事じゃねェ」
「アンタたちが仕事しないのは今に始まったことではありませんが、人の仕事の邪魔だけはしないでください。ビシュラの能力を有効活用できるのはアンタではなく私です、歩兵隊ではなく騎兵隊です！ ビシュラだって自分の能力を発揮できる部署で働きたいに決まっています。此方の都合で合わないところに無理矢理連れてきたのですから、せめて少しでも適したところに配置するのが上司の務めでしょうがッ！」
総隊長執務室前の廊下にはビシュラと緋が立っていた。
ビシュラは庁舎に出勤するなり待機するように言われた。天尊とトラジロ、ヴァルトラムの三人はそれきり執務室の中に籠もってしまった。
ビシュラは勿論廊下に立っていろと指示された訳ではないが、三人の話が済めば少しでも早く総隊長である天尊に挨拶をしたいからということで此処で待っている。
先程から扉一枚隔てた室内からトラジロ怒声が漏れ聞こえてくるから、ビシュラはオロオロと心配そうにしている。
「あの、これは、大丈夫なのでしょうか？ トラジロ騎兵隊長さまがとてもお怒りのようですが」
「トラジロが怒鳴り声を上げるのは珍しいことじゃない」
「わたしが此方にやってきたのはやはり御迷惑だったのでは」
しゅんと肩を落としたビシュラを見て、緋は溜息を吐いた。
「お前は、自分で選んだんだろ？ 自分で正しいと信じて行動したんだろう。だったら人の迷惑なんか気にするな」
腕組みをして廊下の壁に背中から寄り掛かり、フッと笑った。
「アタシのほうこそ余計なことをして迷惑だと恨み言を言われるかと思っていたぞ」
「余計なことなんてそんな」
「丸く収まったとはいえお前を傷付けた歩兵長に手を貸したんだからな、お前に泣かれて恨まれても仕方ないと一応覚悟はしていた」
ビシュラは緋の前に立ち、緋の顔をじっと見詰める。
意志の強そうな凛々しい眉、すぐに表情を険しくする眉間の皺、だが三本爪飛竜騎兵大隊にいる間中、誰よりもビシュラの味方をしてくれた。ビシュラの為に怒り、ビシュラの為に叱り、ビシュラの為に行動してくれる優しい人だ。
「フェイさんはわたしの為にそうしてくださったのでしょう？」
もしもビシュラが、ヴァルトラムに恋をしていたと告げなければ緋が手を貸すことは決して無かっただろう。
ビシュラが恋い焦がれていると言ったヴァルトラムがビシュラを望んでいると気付いたとき、そこにビシュラが幸福になる一縷の望みを見出した。これ以上無いというほど蹂躙されて傷付けられてこの世の淵にいたビシュラを救い出す手段があるとしたらそれしかないと思った。人の世への絶望と己への失望で呪いに囚われていたビシュラを助けてやりたかった。
この世界がお前にとって厳しく辛いものだなんて諦めて欲しくなかったんだ。
「ヴァルトラム歩兵隊長さまとフェイさんが来てくださらなければわたしはずっと《観測所》にいたでしょう。わたしのような者は彼処以外に居場所は無いと思っていましたし。あのまま彼処で……ヴァルトラム歩兵隊長さまに望まれていると知ることもなく、生涯自分を呪ったままだったと思います」
「お前は何も悪くないぞ、ビシュラ。歩兵長のワガママに振り回されただけだ」
「フェイさん、わたしを迎えに来てくださって本当にありがとうございました」
ビシュラは花のようににっこりと微笑み、難しかった緋の表情もついに綻ぶ。
この子が心から笑えるようになって本当に良かった。
着ている物を剥がれ尊厳を刮ぎ落とされ持ち物もなく裸足で突っ立って、残りの人生を悔やんだまま泣きもせず心を殺して死んでいくなんて羽目にならなくて良かった。
「あれ？ ビシュラちゃんじゃねェの」
フレンドリーな間の抜けた声。声の主は勿論緋には直ぐ分かったが、ビシュラはきょとんとして其方に顔を向ける。
廊下に二人が立っているのを見付けたズィルベルナーが寄ってくる。
「派遣終わって帰ったんじゃなかったっけ？」
長身のズィルベルナーは腰を折ってビシュラに顔を近付けてくる。
「ビシュラは正式にウチの隊員になった」
「ハッ？ 《観測所》のヤツだろ？ 戦えんの」
「それは今から仕込む」
「今からァ？ 何ソレ」
ズィルベルナーは素っ頓狂な声を上げて頭の位置を通常の高さまで引き戻した。
「あ、あの、こちらの方は」
ビシュラは緋に小声で訊ねた。
ビシュラは派遣期間中トラジロの補佐をする為に行動の大部分を共にしていたが、他の隊員がビシュラに接することを彼が意図的に避けていた為にほとんどの隊員とは面識がない。
彼は無法者ばかりの隊員たちの中に若い娘などトラブルの種だと判断したのだ。その読みは大当たり、ヴァルトラムという予想以上にかなり大きな魚を釣り上げてしまった訳だ。
「騎兵隊二位官のズィルベルナーだ」
「二位官殿っ？」
ビシュラは慌てて深く頭を垂れた。
「これは御挨拶もせずに失礼致しました。本日付けで三本爪飛竜騎兵大隊に配属となりました、ビシュラで御座います。先の派遣期間では二位官殿に御挨拶もできずに申し訳御座いませんでした。《観測所》での勤務も一年足らずの若輩者で御座いますが皆様のご迷惑とならぬよう精進……」
「そんな堅苦しいのいいよ～。俺はビシュラちゃんのこと知ってっし」
ズィルベルナーは畏まるビシュラにパタパタと手を振ってみせる。ビシュラを指差して緋のほうに顔を向ける。
「つーか何でビシュラちゃんがウチに配属？」
「歩兵長が直々に引き抜いてきた。何か文句あるか、ズィルビー」
「へぇー、じゃあ今から鍛えるっつってもそこそこの見込みはあんだな」
「それはどうだろうな」
ズィルベルナーはビシュラへと顔を引き戻した。細い顎を人差し指で支えてクイッと上を向かせる。
「さぞかし美味いんだろな♪」
「やめとけズィルビー。どうなっても知らないぞ」
キョトンとしているビシュラへとズィルベルナーの顔が接近してゆく。
人の忠告には耳を貸したほうがよいのに。ズィルベルナーの浅はかさに緋は溜息を吐いた。
バターン！
ズィルベルナーの唇がビシュラのそれにあと数センチで触れるというところで執務室のドアが勢いよく開いた。
ビュオッ。
何かが空を裂いて直進してくる音。
ズィルベルナーは反射的に素早く顔を退いた。
ビィィイインッ！
大きなナイフが目の前を通過して壁に突き刺さった。
ハラリと落ちる前髪が数本。
自分の身に何が起こったか瞬時に理解したビシュラ。ガタガタと震えながらギギギギと音がしそうなくらいぎこちなくドアのほうに顔を向けた。
「っ……いっいまっ、か、かすりました！」
「当ててねェだろ」
ナイフを放った張本人であるヴァルトラムはサラッと言い放った。
ナイフが命中しなかったのはヴァルトラムの腕のお陰なのかそれとも運の良さのお陰だったのか、ビシュラには分からない。
「俺には当てる気だったろ！💢」
「煩ェクソガキ。喋んな。ブッ殺すぞ」
「それが被害者に言うセリフかよ！」
ズィルベルナーの抗議などマトモに取り合わず、ヴァルトラムはガッガッと踵を鳴らして歩いて行ってしまった。
「随分ゴキゲンナナメだな、歩兵長」
緋はヴァルトラムの背中を眺め他人事のように言った。
「ビシュラを騎兵隊に取られたものだから拗ねているんですよ。少し思い通りにならなかったからといって周りに当たり散らすなんてデカイ図体して情けない」
「八つ当たりでナイフぶっ刺されたら堪んねェっつうの」
ズィルベルナーはヴァルトラムが歩いて行った方向へべーっと舌を出した。
実に子どもっぽい男だ。これで二位官の地位にいるとは信じがたい。
「ビシュラ。総隊長がお呼びです。執務室へ」
「はいっ」
いよいよこの時が来たかと、ビシュラは胸を押さえて大きく呼吸をした。
「この度は、カルディナルロート総隊長さまに御迷惑をおかけしまして大変申し訳御座いませんっ」
総隊長執務室へ入室するなり、ドアを背にビシュラは深々と頭を下げた。
ビシュラを部屋に呼び込んだ天尊のほうが少々虚を突かれた。
「何の謝罪だ」
「わたし如きが三本爪飛竜騎兵大隊入隊が叶うなど分不相応だと自覚しております。わたしの入隊についてはヴァルトラム歩兵隊長さまがかなり強引に押し通されたのではないかと……」
ああ、何だ、この娘は引け目を感じているのか。自身を過小評価することが得意で、過ぎるほど控えめなビシュラの性格を考えれば当然のことかも知れない。
「そうでもねェさ。トラジロもお前を欲しそうだったしな」
「トラジロ騎兵隊長さまがですか？」
「ウチは事務方が万年人手不足でな、そろそろその手の人員を入れないとトラジロが実戦に出る前に潰れちまうところだった」
天尊は椅子から立ち上がり、首や腰を曲げて筋を延ばす。トラジロとヴァルトラムの言い合いに長い時間付き合わされた所為だ。
何を決めるにしてもヴァルトラムは戦闘・戦術以外には無関心であり口出ししないから、いつもはそんなに時間はかからないのだけれど。
「確かにヴァルトラムが動かなきゃ本気でお前をウチへ引き抜こうとは思わなかったが、異動は正当なものだ。何も《観測所》に乗り込んで力尽くでお前を誘拐してきた訳じゃねェ。まぁ、ヴァルトラムはそのつもりだったかも知れないが」
「あのような騒ぎになってしまいましたが、所長とカルディナルロート総隊長さまはこれからも御懇意に……？」
「大した騒ぎじゃない。俺もイヴァンも、ヴァルトラムが出向いていってヒビ割れ数カ所で済んだのは奇跡だと思ってる。俺のほうにもイヴァンからお前を宜敷頼むと連絡が来た。お前が心配しているようなことにはならねェよ」
ビシュラはホッと胸を撫で下ろした。自分のような者がイーダフェルトを代表する機関の関係性を案ずるなど分不相応かも知れないが気を揉まない訳がなかった。
「俺はお前を歓迎する、ビシュラ」
天尊の微笑みを見てビシュラは緊張した表情を緩める。
「カルディナルロート総隊長さま……」
「正式に隊員になったからにはまずはそれをやめろ」
「？」
「ウチには俺をそう呼ぶヤツはいねェ。《観測所》の者じゃなく三本爪飛竜騎兵大隊の一員になったことを自覚しろ。俺はこの世に一人しかいねェお前の“総隊長”だ、違うか？」
今日から栄えある三本爪飛竜騎兵大隊の一員となったのだ。最早相応しいか相応しくないか、能力があるかないかの問題ではない。それはもう揺るぎない事実だ。能力が劣っていることを自覚しているならば、足る能力を身に付けるまで成長するしかない。
ビシュラは頭を下げた。
「はい、総隊長っ」
「いい子だ」
天尊はデスクの周囲をぐるりと周りビシュラに近付く。ビシュラの丁度真ん前まで来て、デスクに腰掛けた。
「俺は隠し事は好きじゃねェ。俺に黙っていることは無いか？」
天尊からの質問は意外だった。ビシュラはやや首を傾げる。
「お前のプロフィールを読んだが《回路》の回転数は並か、少しマシって程度だ。ネェベルの総量も決して多いほうじゃない。演算処理とプログラム解析のほうはまあまあってところか。にも関わらずヴァルトラムを行動停止させるほどのプログラムを発動させた。あのイヴァンが試験免除で《観測所》に引き入れる程の逸材なんだろう？ その割にはヤケに簡単に手許から離したのも気になる」
気配もさせず伸びてきた天尊の手がビシュラの顎を捕まえた。
「お前は何者だ？ ビシュラ」
天尊がデスクに腰を落としているから目の高さが近くなり、ビシュラは天尊の目を真っ直ぐに見詰めることになる。
何も映さない真っ白な瞳。見られているのか見ていないのか、生きているのか死んでいるのかさえもよく分からない。
嘘を吐いたら魂を抜かれるのではないか、そんな不気味さがある。
「わ、わたしは……総隊長を欺いていることなどありません。イヴァン所長がお目をかけてくださるのは、所長がとてもお優しい方だからで、わたしが格別優れているからという訳では……っ。プロフィールをご覧になったのならお分かりだと思いますが、わたしは何というかその、とても凡庸ですっ」
焦って早口になるビシュラ。天尊はニッと笑顔を見せた。
「そうか、ならいい」
「え……」
随分あっさりと頷かれて拍子抜け。もっときつい追及があるかと思ったのに。尤も、ビシュラは嘘など吐いていないので追及されても何も出てこないのだけれども。
意図的に天尊に隠していることがあるとすれば、自分が《四ツ耳》であるということくらい。それもイヴァンと懇意にしている天尊は既に聞いているのかも知れない。
「最初に言っておくが、ウチには女はお前と緋しかいない。騎兵隊と歩兵隊でお前とは別々だがアレは面倒見のいいヤツだから良くしてくれるはずだ。他のヤツはアテにならねェから緋を頼れ」
「わたしの所属は騎兵隊ですか？」
「不満か？」
「とんでもございませんっ。ただ、わたしは飛竜に乗るどころか見たこともありませんが……大丈夫でしょうか？」
「騎兵長のトラジロがお前を歩兵隊に入れる訳にはいかねェからと自分が引き取ると言い出したんだ、大丈夫さ。トラジロはお前に期待している」
天尊はビシュラの腰に手を回し、ぐいっと自分のほうに引き寄せた。よろけたビシュラは天尊の胸板にぶつかったが、すぐに上半身を仰け反らせる。だが天尊はビシュラを離さなかった。
「そ、総隊長……っ」
「トラジロも俺も、お前が戦えないことは承知の上だ。だがウチにはお前にやってほしいこともお前にしかできないことも山のようにある。そう自分を卑下するな」
耳のすぐ近くで低くて甘い声で囁かれると鼓動が早まる。異性に耐性がないビシュラにはこれは刺激が強い。顔に熱が集まっていくのが自分でも分かる。
「騎兵隊所属が嫌なら俺の副官にするという手もあるが」
近い近い近い！
唇が耳に触れそうなほど至近距離で甘く囁くのはやめてください、総隊長。
「総隊長の御命令なら従います、からっ……あ、あの、お離しくださいっ」
「それとも、俺よりヴァルトラムの副官がいいか？」
カーッと一気に真っ赤になって口をパクパクさせるビシュラの顔を見て天尊はクックックッと笑う。
これは絶対にからかわれている！
振る舞いは紳士然としているがビシュラの反応を見て楽しんでいるのだ。
新たな上司は敵ではないが純粋な味方でもなさそうだ。
ビシュラの展望は、前途多難。
Fortsetzung folgt.
