小説『ゾルダーテン』chap.04:ヴィンテリヒブルクの姫君01
訓練場。
床に赤いラインで正方形に区切られた5メートル四方のマスが複数描かれている。ライン上に牆壁が出現して外界と遮断され、対戦形式の訓練が始まる。
天尊とヴァルトラムもその一つのエリアの中で対戦していた。二人にとっては軽く流している程度だが、それを目で追えている者は少ない。
トレーニングに励んでいた兵士たちも手を止め二人のエリアに近付いてくる。あっという間に三本爪飛竜騎兵大隊( とグローセノルデン騎士団が入り乱れたギャラリーで人垣ができている。
ビシュラと緋( がアキラを連れてやってきたのは天尊から大分遅れてのことだったが、群がっているギャラリーのお陰ですぐに見付けることができた。
「総隊長はあちらにいらっしゃいますよ、アキラさん」
と、言われても人垣に隠されて天尊の姿を見ることはできないのだけれど。
「ティエンでも真面目にトレーニングとかするんですね」
「総隊長はお忙しい方なので庁舎にいるときはなかなかお時間が取れませんが、必要なトレーニングは欠かされませんよ?」
「楽なトレーニングだけやってるとかですか?」
「そんなことはないと、思いますが……」
アキラの言葉にビシュラは首を傾げる。緋はあっははと笑った。
「お前が知ってる総隊長は怠け者みたいだな」
「家にいるときは大体ソファに寝てるかタバコ吸ってるか弟と遊んでるかなので」
「へぇ。まるでマトモな男みたいだな」
(こっちではマトモなことしてないって意味なのかなぁ)
あちらへ行ってみましょうか、とビシュラに促され動き出そうとしたとき、騎士団員に声をかけられた。
数人の騎士団員が次々にビシュラに話しかけてくる。
「ビシュラ准尉、来てくれて良かった。今日は来ないのかと思っていました」
「どうかなさいましたか?」
「相談したいことがありまして」
「怪我の手当をお願いしてもいいですか」
「はい、勿論です」
「騎兵長にお話ししていただきたいことがあるのですが」
「後でお伺いします。少々お待ちください」
「ご相談いただいた飛竜の飼料についてですが手配はどのようにしましょう?」
「はい。騎兵長に御返答を伺ってきます」
矢継ぎ早に様々な話題を切り出す団員たち。ビシュラは彼等と迅速かつ丁寧に遣り取りを交わす。
アキラは背伸びして緋に小声で耳打ちする。
「ビシュラさんって忙しい人なんですね」
「ここに来てからは特にな」
三本爪飛竜騎兵大隊にも騎士団にも女性は珍しい。特にビシュラのように若くて純真そうな娘など武官には少ない。彼等が何かと用を見付けてはビシュラに構いたくなる気持ちは分からないでもない。
緋と話しているとアキラの手がスッと持ち上げられた。騎士団の一人がアキラの手に自分の掌を添えていた。
「愛らしいお嬢さんですね。フェイ中尉かビシュラ准尉の縁者の方ですか?」
不意なことだったからアキラは半歩後退ってしまった。
「アタシたちじゃない。総隊長の縁者だ」
「ではカルディナルロートの姫ですか。これは光栄。紹介していただけますか、フェイ中尉」
「この子は総隊長の――――」
ズドン!
一発の銃弾が壁を穿った。
三人を取り巻いている男たちはピタッと静まり返った。
銃弾を放ったのはヴァルトラム。天尊は横目でヴァルトラムを睨む。
「オイ。アキラにかすりでもしたら殺すぞ」
「当ててねェだろうが」
天尊とヴァルトラムは対戦を中断していた。何故対戦形式トレーニングの真っ最中であるはずの二人ともが揃って足を止め、こちらを見ているのか騎士団の彼等には分からない。
というか睨んでますよね? 威嚇射撃ですよね、今の。
ヴァルトラムは銃を肩に乗せ、ニイッと笑った。
「お前等こっちに来い、相手してやる」
訓練の御教授を乞いたいとは思っていたが、まさか直接相手していただけるとは想定外。想定外すぎてポカーンと口を半開きにしてしまう。
天尊もアキラとビシュラを取り囲んでいる男たちを指差す。
「そこの金髪のお前、その隣のお前とお前。と、お前もだ」
「ウチのモンもいるな。莫迦が。全員逃げるなよ」
どさくさに紛れて粉をかけようとしていた三本爪飛竜騎兵大隊の隊員たちも青ざめる。隊員だからこそ総隊長と歩兵隊長の恐ろしさはよく知っている。
二人の思惑は緋にはなんとなく察しが付いた。大方、アキラとビシュラが男たちに取り巻かれている様が、自分のものに横取りされたようにでも見えて気に入らなかったのであろう。
この二人の場合は口で説明するより気が済むようにさせてやったほうが話が早い。何より三本爪飛竜騎兵大隊が誇る最大級戦力である総隊長と歩兵隊長が揃い踏みでお手ずから相手をしてくださるのだから騎士団に訓練をするという目的も一応は果たせる。
だから緋は二人を停めることはしなかった。
十数分後――――。
「ティエンストップ!」
アキラは天尊たちを囲っている牆壁をドンドンッと叩いていた。目には見えない壁だがアキラには決して超えることができない堅固なものだ。
壁の内側に立っているのは天尊とヴァルトラムだけ。二人に呼び寄せられた男たちはみな地に突っ伏して呻き声を上げたり意識がなかったり。
アキラが剰りにも必死なものだから、天尊は身構えるのをやめて両手を挙げた。
緋は牆壁を解除した。天尊とヴァルトラムを見ては溜息しか出てこない。実力差は明白なのだからもっと加減してやればよいものを。
これでは目的は訓練ではないと自白しているようなものだ。
「手当てしてやれ、ビシュラ」
「総隊長も歩兵長もやりすぎですよ!」
ビシュラは肩を怒らせてラインを割って入ってくる。先程までアキラが叩いてもビクともしなかった壁は消え去り、行く手を阻むものはない。
天尊とヴァルトラムが素手だったのは不幸中の幸いだった。皆怪我の程度は似たようなものだ。特に重傷である者はいない。一番手近な被害者のところへ座り込み、手当を開始する。
「気は済んだか、総隊長」
緋に尋ねられた天尊は眉間に皺を寄せてフーッと息を吐いた。
「やっぱ訓練になんて出てくるんじゃなかった。人前に出たってアキラに悪い虫が寄ってくるだけだ。俺のアキラはカワイイからな」
「もう何日もサボってるクセに何を言う。アンタの仕事は女と部屋に引き籠もってることじゃないんだぞ」
「バカじゃないの!💢 むやみやたらと人にケガをさせるんじゃありません!」
アキラは赤い顔で天尊の体をぼすっぼすっと叩く。
「分かった分かった。次からはもっと加減するから」
「こらぁ! ちゃんと聞きなさいっ」
叱っているアキラを天尊は冗談のように宥め賺す。天尊にとってはじゃれ合っている程度なのだろう。
このようなものは犬も食わない。天尊を注意する気もない緋は腰に手を当てて平然としている。
「アンタが仕事に引っ付けてくるほどのお気に入りだぞ。どこぞの有力貴族の娘かカルディナルロートの秘蔵の姫かって気になって気になってしょうがなくて当たり前だ。ウチのモンだろうとグローセノルデン大公の騎士団だろうとな」
「まァ、俺のアキラはスゲーカワイイから気になるのは仕方ねェ」
(あー……ダメだ。人の話聞いてないな、この色ボケ総隊長)
天尊はアキラに後ろから腕を回して頭を撫でる。実に上機嫌な天尊を見ていると注意する気にもならない。緋は取り敢えず天尊の足を爪先でコツンと蹴飛ばした。
チラッとアキラを見てみると、天尊の腕の中でブスッとむくれている。そんなアキラの頭に手を置いてポンポンと撫でてやった。
「そんなに怒るなアキラ。総隊長も次からは気を付けるさ」
「……ビックリしました」
「何に?」
「こっちの人はみんな、ティエンと同じくらい強いのかと思ってたので」
アキラから見ればアスガルトの住人は誰も彼もが自分とは異なる。皆一様に不思議な力を持っている。だが、天尊とヴァルトラムはその中でも突出した存在なのだと見ていれば直ぐに分かった。
誰も二人にまともに触れることができない。誰も二人と同じように振る舞うことができない。誰も二人と対等に対峙することができない。
「ア、アキラさん💦 総隊長は」
ビシュラが慌てて説明しようとしたところ、ヴァルトラムの高らかな笑い声が遮った。余程可笑しかったようで豪快に肩を揺すって笑っている。
「クハハハハハッ! みんなコイツと同じくらい強ェのかだと。なかなか面白ェこと言う嬢ちゃんだ、カカカカッ」
ヴァルトラムは天尊の顔を見てニヤリと笑った。そんな表情を向けられたら反射的にムッとしてしまう。
「後生大事に引っ付けちゃいるがそんなに大した男だと思われてねェじゃねェか、ロリコン総隊長」
「煩ェよ、レイパー野郎。大した男どころかテメェは犯罪者じゃねェか」
ガッ!
天尊とヴァルトラムは同時に互いの胸倉を掴み合った。
ビシュラとアキラは慌ててあたふたとするが、緋はハーッと深い溜息を吐いた。
「だからやめろっつってんだろ。ここは庁舎じゃないんだぞ。ガキみたいなケンカでここをぶっ飛ばす気かッ」
「傾注!」
突然、訓練場に大きな声が轟いた。
声のほうを振り返ると、冑( を被った騎士たちが物々しく訓練場の中へ入ってきたところだった。
「ユリイーシャ姫の御前である。騎士団総員、傾注せよ」
冑( の騎士が一歩ずつ左右に動き、その間からスッと音もなく進み出てきた一人の貴人。
海色のように深い蒼の巻き毛、それとは対照的な臙脂色のドレス、肩には総レースのストールを掛けており、上品で物静かそうな印象を受ける。
ビシュラは立ち上がって蒼髪の貴人のほうを振り返った。
(あ。この方がユリイーシャ・グローセノルデンさまなんだ)
蒼髪の貴人は小さな歩幅でゆっくりと天尊の前まで歩いてきた。天尊と目を合わせ、柔らかくにっこりと微笑んだ。
「お久し振りですわ、ティエンゾン様」
姫は美しかった。
髪の色、ドレスの色、肌の色が絵画のように見事な配色であり、顔は彫刻のように整っている。
「お姫様がこんなところに何しに来た、ユリイーシャ」
優美な微笑みを向けてくる姫に対し、天尊は少々無愛想すぎるほどの無表情だった。
ユリイーシャ・グローセノルデン
ヘルヴィン・グローセノルデン大公の令嬢。歳経ても屈強さに陰りを見せない父親には顔も風貌も似ても似つかないが、父親譲りの蒼い髪を見れば血縁であることは明かだ。
此処は兵士たちが汗水流して鍛練を積む訓練場。確かに天尊が言う通り、お姫様が足を踏み入れるには相応しくない。
「ティエンゾン様が可愛らしいお嬢さんをお連れになっていると御父様から伺いましたの。是非とも拝見したくって」
(ヘルヴィンのヤツ、余計なことを)
天尊は心の中で舌打ち。
「今からお茶を御一緒しませんこと? ティエンゾン様。ティエンゾン様の可愛い方もお連れになってくださいませ」
「それは」
「私の日課のようなものですから、気が置けないティータイムですわ。どうぞそのままでいらして」
「俺は」
「ティエンゾン様のお好きな葉は何でしたかしら? 城に用意があるとよいのですけれど。冬の間は稀少なものは手に入りづらいのであまり珍しいものは仰有らないでくださいね」
ユリイーシャはおっとりした口調でありながら天尊の返事も待たずポンポンと話を進める。これは交渉の上手い下手ではない。ただ単に自分の話したいことから話すタイプなのだ。
話を聞かない相手に何を話しても効力が薄い。天尊はまた無表情でユリイーシャが喋り終えるのを待つ。
一頻り話した後、ユリイーシャは顔を左右させてアキラとビシュラをチラッチラッと一度ずつ見た。
「それで、どちらがティエンゾン様の可愛いお嬢さんなのです?」
ヴァルトラムは不愉快そうに眉間を寄せた。そしてビシュラに腕を回してガバッと自分のほうに引き寄せた。
「オイ。コレは俺のだ。コイツのじゃねェ」
「ほ、歩兵長💦 ユリイーシャ姫さまに対して失礼ですよっ」
ユリイーシャはヴァルトラムの荒っぽい物言いに気を悪くした様子はなかった。笑顔を湛えたままアキラのほうに視線を移動させた。
「ではこちらがティエンゾン様の」
「お姫さま」という人種は皆こういうものなのだろうか。ユリイーシャは初対面にも関わらず警戒心を感じさせない人物だった。アキラにとってはとても珍しい蒼い髪の毛の持ち主だというのに。
それともユリイーシャというこのお姫さまが特別穏やかな人柄なのだろうか。
「お茶はお嫌いかしら?」
「いえ、飲みます」
すぐさま答を返してきたアキラが可愛らしくて、ユリイーシャは口元に手を宛がってフフッと笑った。
「すぐに美味しいお茶とお菓子を用意させます。ティエンゾン様といらしてね」
「俺はいいとは言ってねェぞ、ユリイーシャ」
「訓練の後ですもの。私は多少の汚れなんて気にしませんわ」
「誰もそんな話してねェよ💢」
天尊の苛立ちなど気付いてもいないのだろう、ユリイーシャはくるりと踵を返した。そのまま出て行くのかと思ったら緋の前で足を止めてまたにっこりと微笑んだ。
「フェイも一緒にお茶しましょう」
このお姫様は根っからのお姫様なのだ。生まれ付いての姫であり、そうあるように育てられたのだから当然だ。父親や騎士に愛されて守られて育ち、人の悪意を知らず拒否されることも知らない。
それが何なのか分からないのだから拒否をしても徒労。緋は「分かった」とだけ返した。
Fortsetzung folgt.
床に赤いラインで正方形に区切られた5メートル四方のマスが複数描かれている。ライン上に牆壁が出現して外界と遮断され、対戦形式の訓練が始まる。
天尊とヴァルトラムもその一つのエリアの中で対戦していた。二人にとっては軽く流している程度だが、それを目で追えている者は少ない。
トレーニングに励んでいた兵士たちも手を止め二人のエリアに近付いてくる。あっという間に三本爪飛竜騎兵大隊
ビシュラと緋
「総隊長はあちらにいらっしゃいますよ、アキラさん」
と、言われても人垣に隠されて天尊の姿を見ることはできないのだけれど。
「ティエンでも真面目にトレーニングとかするんですね」
「総隊長はお忙しい方なので庁舎にいるときはなかなかお時間が取れませんが、必要なトレーニングは欠かされませんよ?」
「楽なトレーニングだけやってるとかですか?」
「そんなことはないと、思いますが……」
アキラの言葉にビシュラは首を傾げる。緋はあっははと笑った。
「お前が知ってる総隊長は怠け者みたいだな」
「家にいるときは大体ソファに寝てるかタバコ吸ってるか弟と遊んでるかなので」
「へぇ。まるでマトモな男みたいだな」
(こっちではマトモなことしてないって意味なのかなぁ)
あちらへ行ってみましょうか、とビシュラに促され動き出そうとしたとき、騎士団員に声をかけられた。
数人の騎士団員が次々にビシュラに話しかけてくる。
「ビシュラ准尉、来てくれて良かった。今日は来ないのかと思っていました」
「どうかなさいましたか?」
「相談したいことがありまして」
「怪我の手当をお願いしてもいいですか」
「はい、勿論です」
「騎兵長にお話ししていただきたいことがあるのですが」
「後でお伺いします。少々お待ちください」
「ご相談いただいた飛竜の飼料についてですが手配はどのようにしましょう?」
「はい。騎兵長に御返答を伺ってきます」
矢継ぎ早に様々な話題を切り出す団員たち。ビシュラは彼等と迅速かつ丁寧に遣り取りを交わす。
アキラは背伸びして緋に小声で耳打ちする。
「ビシュラさんって忙しい人なんですね」
「ここに来てからは特にな」
三本爪飛竜騎兵大隊にも騎士団にも女性は珍しい。特にビシュラのように若くて純真そうな娘など武官には少ない。彼等が何かと用を見付けてはビシュラに構いたくなる気持ちは分からないでもない。
緋と話しているとアキラの手がスッと持ち上げられた。騎士団の一人がアキラの手に自分の掌を添えていた。
「愛らしいお嬢さんですね。フェイ中尉かビシュラ准尉の縁者の方ですか?」
不意なことだったからアキラは半歩後退ってしまった。
「アタシたちじゃない。総隊長の縁者だ」
「ではカルディナルロートの姫ですか。これは光栄。紹介していただけますか、フェイ中尉」
「この子は総隊長の――――」
ズドン!
一発の銃弾が壁を穿った。
三人を取り巻いている男たちはピタッと静まり返った。
銃弾を放ったのはヴァルトラム。天尊は横目でヴァルトラムを睨む。
「オイ。アキラにかすりでもしたら殺すぞ」
「当ててねェだろうが」
天尊とヴァルトラムは対戦を中断していた。何故対戦形式トレーニングの真っ最中であるはずの二人ともが揃って足を止め、こちらを見ているのか騎士団の彼等には分からない。
というか睨んでますよね? 威嚇射撃ですよね、今の。
ヴァルトラムは銃を肩に乗せ、ニイッと笑った。
「お前等こっちに来い、相手してやる」
訓練の御教授を乞いたいとは思っていたが、まさか直接相手していただけるとは想定外。想定外すぎてポカーンと口を半開きにしてしまう。
天尊もアキラとビシュラを取り囲んでいる男たちを指差す。
「そこの金髪のお前、その隣のお前とお前。と、お前もだ」
「ウチのモンもいるな。莫迦が。全員逃げるなよ」
どさくさに紛れて粉をかけようとしていた三本爪飛竜騎兵大隊の隊員たちも青ざめる。隊員だからこそ総隊長と歩兵隊長の恐ろしさはよく知っている。
二人の思惑は緋にはなんとなく察しが付いた。大方、アキラとビシュラが男たちに取り巻かれている様が、自分のものに横取りされたようにでも見えて気に入らなかったのであろう。
この二人の場合は口で説明するより気が済むようにさせてやったほうが話が早い。何より三本爪飛竜騎兵大隊が誇る最大級戦力である総隊長と歩兵隊長が揃い踏みでお手ずから相手をしてくださるのだから騎士団に訓練をするという目的も一応は果たせる。
だから緋は二人を停めることはしなかった。
十数分後――――。
「ティエンストップ!」
アキラは天尊たちを囲っている牆壁をドンドンッと叩いていた。目には見えない壁だがアキラには決して超えることができない堅固なものだ。
壁の内側に立っているのは天尊とヴァルトラムだけ。二人に呼び寄せられた男たちはみな地に突っ伏して呻き声を上げたり意識がなかったり。
アキラが剰りにも必死なものだから、天尊は身構えるのをやめて両手を挙げた。
緋は牆壁を解除した。天尊とヴァルトラムを見ては溜息しか出てこない。実力差は明白なのだからもっと加減してやればよいものを。
これでは目的は訓練ではないと自白しているようなものだ。
「手当てしてやれ、ビシュラ」
「総隊長も歩兵長もやりすぎですよ!」
ビシュラは肩を怒らせてラインを割って入ってくる。先程までアキラが叩いてもビクともしなかった壁は消え去り、行く手を阻むものはない。
天尊とヴァルトラムが素手だったのは不幸中の幸いだった。皆怪我の程度は似たようなものだ。特に重傷である者はいない。一番手近な被害者のところへ座り込み、手当を開始する。
「気は済んだか、総隊長」
緋に尋ねられた天尊は眉間に皺を寄せてフーッと息を吐いた。
「やっぱ訓練になんて出てくるんじゃなかった。人前に出たってアキラに悪い虫が寄ってくるだけだ。俺のアキラはカワイイからな」
「もう何日もサボってるクセに何を言う。アンタの仕事は女と部屋に引き籠もってることじゃないんだぞ」
「バカじゃないの!💢 むやみやたらと人にケガをさせるんじゃありません!」
アキラは赤い顔で天尊の体をぼすっぼすっと叩く。
「分かった分かった。次からはもっと加減するから」
「こらぁ! ちゃんと聞きなさいっ」
叱っているアキラを天尊は冗談のように宥め賺す。天尊にとってはじゃれ合っている程度なのだろう。
このようなものは犬も食わない。天尊を注意する気もない緋は腰に手を当てて平然としている。
「アンタが仕事に引っ付けてくるほどのお気に入りだぞ。どこぞの有力貴族の娘かカルディナルロートの秘蔵の姫かって気になって気になってしょうがなくて当たり前だ。ウチのモンだろうとグローセノルデン大公の騎士団だろうとな」
「まァ、俺のアキラはスゲーカワイイから気になるのは仕方ねェ」
(あー……ダメだ。人の話聞いてないな、この色ボケ総隊長)
天尊はアキラに後ろから腕を回して頭を撫でる。実に上機嫌な天尊を見ていると注意する気にもならない。緋は取り敢えず天尊の足を爪先でコツンと蹴飛ばした。
チラッとアキラを見てみると、天尊の腕の中でブスッとむくれている。そんなアキラの頭に手を置いてポンポンと撫でてやった。
「そんなに怒るなアキラ。総隊長も次からは気を付けるさ」
「……ビックリしました」
「何に?」
「こっちの人はみんな、ティエンと同じくらい強いのかと思ってたので」
アキラから見ればアスガルトの住人は誰も彼もが自分とは異なる。皆一様に不思議な力を持っている。だが、天尊とヴァルトラムはその中でも突出した存在なのだと見ていれば直ぐに分かった。
誰も二人にまともに触れることができない。誰も二人と同じように振る舞うことができない。誰も二人と対等に対峙することができない。
「ア、アキラさん💦 総隊長は」
ビシュラが慌てて説明しようとしたところ、ヴァルトラムの高らかな笑い声が遮った。余程可笑しかったようで豪快に肩を揺すって笑っている。
「クハハハハハッ! みんなコイツと同じくらい強ェのかだと。なかなか面白ェこと言う嬢ちゃんだ、カカカカッ」
ヴァルトラムは天尊の顔を見てニヤリと笑った。そんな表情を向けられたら反射的にムッとしてしまう。
「後生大事に引っ付けちゃいるがそんなに大した男だと思われてねェじゃねェか、ロリコン総隊長」
「煩ェよ、レイパー野郎。大した男どころかテメェは犯罪者じゃねェか」
ガッ!
天尊とヴァルトラムは同時に互いの胸倉を掴み合った。
ビシュラとアキラは慌ててあたふたとするが、緋はハーッと深い溜息を吐いた。
「だからやめろっつってんだろ。ここは庁舎じゃないんだぞ。ガキみたいなケンカでここをぶっ飛ばす気かッ」
「傾注!」
突然、訓練場に大きな声が轟いた。
声のほうを振り返ると、冑
「ユリイーシャ姫の御前である。騎士団総員、傾注せよ」
冑
海色のように深い蒼の巻き毛、それとは対照的な臙脂色のドレス、肩には総レースのストールを掛けており、上品で物静かそうな印象を受ける。
ビシュラは立ち上がって蒼髪の貴人のほうを振り返った。
(あ。この方がユリイーシャ・グローセノルデンさまなんだ)
蒼髪の貴人は小さな歩幅でゆっくりと天尊の前まで歩いてきた。天尊と目を合わせ、柔らかくにっこりと微笑んだ。
「お久し振りですわ、ティエンゾン様」
姫は美しかった。
髪の色、ドレスの色、肌の色が絵画のように見事な配色であり、顔は彫刻のように整っている。
「お姫様がこんなところに何しに来た、ユリイーシャ」
優美な微笑みを向けてくる姫に対し、天尊は少々無愛想すぎるほどの無表情だった。
ユリイーシャ・グローセノルデン
ヘルヴィン・グローセノルデン大公の令嬢。歳経ても屈強さに陰りを見せない父親には顔も風貌も似ても似つかないが、父親譲りの蒼い髪を見れば血縁であることは明かだ。
此処は兵士たちが汗水流して鍛練を積む訓練場。確かに天尊が言う通り、お姫様が足を踏み入れるには相応しくない。
「ティエンゾン様が可愛らしいお嬢さんをお連れになっていると御父様から伺いましたの。是非とも拝見したくって」
(ヘルヴィンのヤツ、余計なことを)
天尊は心の中で舌打ち。
「今からお茶を御一緒しませんこと? ティエンゾン様。ティエンゾン様の可愛い方もお連れになってくださいませ」
「それは」
「私の日課のようなものですから、気が置けないティータイムですわ。どうぞそのままでいらして」
「俺は」
「ティエンゾン様のお好きな葉は何でしたかしら? 城に用意があるとよいのですけれど。冬の間は稀少なものは手に入りづらいのであまり珍しいものは仰有らないでくださいね」
ユリイーシャはおっとりした口調でありながら天尊の返事も待たずポンポンと話を進める。これは交渉の上手い下手ではない。ただ単に自分の話したいことから話すタイプなのだ。
話を聞かない相手に何を話しても効力が薄い。天尊はまた無表情でユリイーシャが喋り終えるのを待つ。
一頻り話した後、ユリイーシャは顔を左右させてアキラとビシュラをチラッチラッと一度ずつ見た。
「それで、どちらがティエンゾン様の可愛いお嬢さんなのです?」
ヴァルトラムは不愉快そうに眉間を寄せた。そしてビシュラに腕を回してガバッと自分のほうに引き寄せた。
「オイ。コレは俺のだ。コイツのじゃねェ」
「ほ、歩兵長💦 ユリイーシャ姫さまに対して失礼ですよっ」
ユリイーシャはヴァルトラムの荒っぽい物言いに気を悪くした様子はなかった。笑顔を湛えたままアキラのほうに視線を移動させた。
「ではこちらがティエンゾン様の」
「お姫さま」という人種は皆こういうものなのだろうか。ユリイーシャは初対面にも関わらず警戒心を感じさせない人物だった。アキラにとってはとても珍しい蒼い髪の毛の持ち主だというのに。
それともユリイーシャというこのお姫さまが特別穏やかな人柄なのだろうか。
「お茶はお嫌いかしら?」
「いえ、飲みます」
すぐさま答を返してきたアキラが可愛らしくて、ユリイーシャは口元に手を宛がってフフッと笑った。
「すぐに美味しいお茶とお菓子を用意させます。ティエンゾン様といらしてね」
「俺はいいとは言ってねェぞ、ユリイーシャ」
「訓練の後ですもの。私は多少の汚れなんて気にしませんわ」
「誰もそんな話してねェよ💢」
天尊の苛立ちなど気付いてもいないのだろう、ユリイーシャはくるりと踵を返した。そのまま出て行くのかと思ったら緋の前で足を止めてまたにっこりと微笑んだ。
「フェイも一緒にお茶しましょう」
このお姫様は根っからのお姫様なのだ。生まれ付いての姫であり、そうあるように育てられたのだから当然だ。父親や騎士に愛されて守られて育ち、人の悪意を知らず拒否されることも知らない。
それが何なのか分からないのだから拒否をしても徒労。緋は「分かった」とだけ返した。
Fortsetzung folgt.