小説『ゾルダーテン』chap.01:森の迷い子

 わたしは歌う

 あなたが息の根が絶えるまで





   §§§§§





 鬱蒼とした森。
 太く高く伸びた木々に天を覆い隠され、頭上に届く光のなんと少ないことか。先ほど懐中時計で確かめた時刻は真昼の頃であったというのに、まるで夕暮れのように暗い。手に持ったランプが無ければ数メートル先が見えない。
 足下には木の根や蔦、苔が蔓延っている。くるぶしまである長いコートの裾や足を引っ掛けてしまわないように、絨毯のように柔らかい土を注意深く踏み締めて歩く。
 大気が湿った空気で埋め尽くされていて呼吸がしづらい。歩いているだけなのに息が弾む。

 旅人はついに足を止めた。コートの下に斜めにかけたバッグから懐中時計を取り出し、再度時刻を確認する。
 最後に時刻を確認してから結構な時間を歩いた。この森は旅人の予想以上に深い。


「本当にこっちで合ってるのかな……」


 不安をそのまま口にしてみる。無論誰からも何処からも返事は無い。

 旅人はランプを足下に置き、懐中時計をバッグにしまった。次に取り出したのは掌に乗る大きさのコンパクト。
 コンパクトを開くと半透明の疑似ディスプレイが宙に飛び出した。仄かに光るディスプレイに表示されたのは数値と点と点。現在位置と目的地を参照してみると先程よりは点と点が近付いていることが分かった。


「登録した座標はこの先か。方角は合ってる」


 一安心してコンパクトをパタンと閉じた。それをバッグの中に押し込んで足下に置いたランプに手を伸ばす。

 あると思ったその場所に無かった。手持ちランプの取っ手を掴むはずだった手は宙を切った。


「あれ?」


 旅人は自分の足下に目を落とす。



 カァン、カランカランカン……



 ランプがひとりでに転げていく音。
 ランプがあったはずの場所には、石の板に覆われた太い丸太が突き刺さっていた。


「?」


 何故このようなものが此処に?
 先程までは無かったはず。大方此奴が居場所を奪ってしまったが為にランプが弾かれて転げていってしまったのであろう。

 この丸太は一体何なのだ。
 地に突き刺さる丸太を上へ上へと視線で辿っていき、ついに旅人はギョッとした。

 そこにあったのは、夜に似た暗闇の中に光る複数の赤い点。これは生物の眼だ。
 太い丸太だと思ったもの、それは石板のような殻に覆われたこの生物の脚だったのだ。






 こちらにも森の中を徘徊する者共。
 先程の旅人とは違い彼等は三人。しかも足場の悪さにも慣れた様子でスムーズに進んでいく。


「何で俺がこんなところまで出てこなきゃなんねェんだ」


 三人の中で最も長身、2メートルを超える大男はあからさまに不服そうな顔をしている。
 その隣に並んでいる桃色の短髪の女性は溜息を吐いた。


「アンタだってヒマだヒマだとさんざ文句言ってたろ」

「出迎えなんざ騎兵隊の奴等にやらせりゃいい。アイツ等立派な乗り物持ってんじゃねェか」

「みんながアンタみたいに目がいい訳じゃない。こんな深い森で上空から人捜しなんか無理だ」

「大体、いい大人が森で迷うなんざすっトロイ。迷子探しが俺の仕事かよ」

「わざわざ《観測所》から寄越してもらってるんだ、それ相応の扱いが要る。だからアンタなんだよ」


 長身の男は何かを察知してピクッと顔を上げた。


「向こうが騒がしいな」


 向こう、とはどちらを言っているのか定かではない。桃色の女性ともう一人の男は顔を見合わせる。
 だがこの男が言っているからには信憑性は高い。二人は男が顔を向けている方角に耳を澄ませる。






 三人は長身の男の言う通りの方角に移動した。
 ズシンズシン、と地鳴りのような重たい衝撃音は長身の男以外の耳にももうはっきりと届いている。

 地面に飛び出した太い木の根に乗っかって見渡すと、戦車ほどもある大きな蜘蛛が何かを追い掛けているのが見えた。
 蜘蛛が追い掛けているのは、白いロングコート。


「甲殻蜘蛛に追い掛けられてる間抜けがいるぜ」

「まさか……」

「迷子になる間抜けだ。蜘蛛に追い掛けられてもおかしかねェ」


 男は額の上に乗せていたゴーグルを目の位置まで引き下げた。
 そして剣を肩に担ぎ、地を蹴って飛び出した。




「はっ、はっ、はっ……!」


 旅人の息は荒かった。
 全力で走るが一向に蜘蛛を引き離せない。ぬかるみ、木の根、滑る苔、足場の悪い森の中では多足の蜘蛛のほうがいくらも有利であるようだ。そして暗闇はどちらへ逃れればよいのか、一瞬の判断を難しくさせる。


「あっ!」


 気を付けていたはずなのについに足を取られてしまった。全速力で走っていたから、体を前方に投げ出すようにして地面に倒れ込んだ。

 慌てて振り返り、其処にあったのは恐るべき速度で迫る真っ赤な複眼。
 立ち上がって走り出すのが間に合わない。旅人は腰に携えた双剣の柄を握った。


「……っ!」



 ドッパァアアアンッ!



 何が起こったのか分からなかった。

 破裂した。蜘蛛が突然。
 水風船のように血飛沫と肉片をあらゆる方向に飛び散らせて。
 天に舞い上がった血飛沫が、一瞬遅れて豪雨のように叩き付ける。


 真っ二つに割れた蜘蛛の肉片の上、真っ赤な雨が降り注ぐ中、その男は立っていた。
 たった一本の剣をぶら下げて。


 褐色の巨躯――――。



「――――……」


 旅人はただただ呆然とその男を見上げていた。
 立ち上がることも礼を言うことも忘れ、言葉を繰り出す思考は停止し、その眼に男の姿を焼き付けていた。

 恐怖と衝撃、何が起こったのか理解できず安堵が追い付いてこない。自分は助かったのだろうか、この男に助けられたのだろうか、あの恐ろしい生き物を破壊する化け物のようなこの男に。この男こそが化け物を超えた化け物ではないのか。
 化け物でないとしたら正義の使者か? 真っ赤な血液が滴る剣をぶら下げた姿はとてもそうは見えない。

 血雨の中、歯を剥き出しに笑っている姿はまるで魔物ではないか。



 男は旅人に近寄ってきた。滴る血液を拭いもせず剣を肩に担ぎ、地面にへたり込んだままの旅人をじっと見下ろす。


「オイ、フェイ。コイツで合ってんじゃねェか? 小綺麗なカッコしてらァ」

「やっぱりか」


 男はゴーグルをグイッと引き上げた。そして旅人をよりジロジロと観察する。
 はだけたコートの隙間から剣の鞘がチラッと覗く。


「得物は持ってるクセに何逃げ回ってやがんだ」

「みんながアンタと同じで蜘蛛を真っ二つにできる訳じゃない。何度も言わせんな。逃げ回るのがフツーだ」


 女性の話に「フゥン」と適当な相槌を打ち、男はいきなり旅人のロングコートを鷲掴みにして捲り上げた。


「な!」


 そこで見えたのは白くて細い足。コートごとスカートを捲り上げてしまい、腿までがハッキリと見えた。


「何だオメェ、女か」

「何をするんです!」



 バキィッ!



 旅人――――足を晒された女性は、いまだコートを掴んでいる男の顔を思いっきり殴った。


 短髪の女性は「まあ、殴られるだろうな」と驚きもしなかったが、もう一人の男は慌てふためく。


「テメェ、歩兵長に何しやがる!」

「えっ! この人が!?」


 バッと顔を見ると、男は無表情で殴られた自分の顎を摩っていた。


「あ、あなたが……ヴァルトラム、歩兵隊長、さま……?」


 彼女は自分の中でサーッと血の気が引く音を聞いた。





   §§§§§





 西方森林最深部エントランスベース。

 旅人、否、コートを脱いだ黒髪の少女は、窮地を救ってくれた三人に伴われ目指していた目的地へと無事辿り着くことができた。

 彼女は此処で一人の要人と会わなければならない。
 蜘蛛の血雨を頭から浴びて汚れた姿で要人と会すのはかなり申し訳ないが、約束の刻限に大幅に遅れてしまったので身形を整えたいなどと贅沢を言うことはできない。フードを目深に被っていたお陰で顔は割と汚れずに済んだのは不幸中の幸いか。


 到着するとすぐに部屋に通された。
 奥に大きめの重厚なデスクが配置され、部屋の中央に椅子が一つ。椅子はデスクのほうに正面を向けて置いてあり、背中にはソファとテーブルがある。彼女は中央の椅子に座って待つように指示された。

 部屋の中には自分を迎えに来てくれた長身の男と女性もいた。男はソファに腰掛けているはずだが、ずっと背中を睨み付けられている気がする。
 拳で思いっきり殴ってしまったのだからそれも致し方ないと分かってはいるがまるで針の筵。居心地が悪いなんてものではない。


 ガチャ、とドアノブが回る音がした。
 この息が詰まりそうな空間に風穴が開いたかのように風が入ってきた。

 風はその男が連れてきた。ピンと伸びた背筋、やや早足でしっかりと歩き、揺れる白髪。


(あ。白い髪――……)


 視界の中に白髪を見止めた途端、彼女は椅子から立ち上がった。


「ウーティエンゾン・ファ=カルディナルロートさま、で在られますね」

「オウ。俺だ」


 天尊は短く返事をしただけで彼女の前では足を止めず、そのままの速度でデスクに辿り着いた。自分の椅子に腰を下ろし、それから彼女を真正面から見据える。


(聞いてた通りだ。本当に目も白い)


 背後でドアが閉まる音。
 また一人彼女の横を通過した。
 額に角を持つ、やや短身の男性。小柄だが恐らく彼女よりは年上であろう。
 彼は天尊のデスクの端に立ち、両腕を腰の後ろで組んだ。

 そこまでのんびりと観察してしまったことに気付き、彼女は慌てて頭を下げた。


「お初にお目にかかります。三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)総隊長ウーティエンゾン・ファ=カルディナルロートさま。わたくしは《観測所》初等所員ビシュラと申します。総隊長さまの要請を受け《観測所》より本日此方へ到着致しました」


 肩に力の入った堅苦しい挨拶。緊張しているのが見て分かる。


「新人か」

「は、はい。《観測所》に配属されて一年目です」

「イヴァンから話は聞いてるが、ウチに寄越されるようには見えねェな」


 天尊の言葉は意外だった。ビシュラは少し顔を上げて不思議そうに天尊を見る。


「所長からわたしの話をですか……??」

「まぁいい。イヴァンが人選ミスなんざしねェだろ」


 天尊にフラッと手を振られ、ビシュラは再度深く頭を下げた。


「短い期間では御座いますが、皆様のお力になれるように誠心誠意お仕え致します。どうぞ宜敷お願い致します」


 天尊は、デスクの近くに控えている角の青年に目を遣る。


「お前に任せたぞ、トラジロ」

「はい。総隊長」


『トラジロ』
 三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)騎兵隊隊長。
 隊の中でも年齢は若いほうだが幼い頃より竜を駆ることに最も長けており、実力主義の三本爪飛竜騎兵大隊では騎兵隊を統べる長となっている。
 なんと言っても特徴は額に生える大きな角であろう。



「で、ソイツの入隊試験は誰がやるんだ?」



 この声は、あの男のものだ。
 ビシュラはすぐに分かった。地を這うような低い声は年若いビシュラを怯えさせるには充分だ。


 トラジロは男を横目で見る。何が可笑しいのか鬼歯を見せてニヤニヤ笑っているのが勘に障る。


「何を言っているんですか、ヴァルトラム。彼女はこちらから頼んで来ていただいたんです。試験など不要です」


『ヴァルトラム』
 三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)歩兵隊隊長。
 実に隊の八割以上を占める歩兵の長。性格は好戦的、粗野、冷酷かつ非人道的であり少なからず問題のある人物だが、戦闘能力は総隊長である天尊に次ぐ超前線戦力。
 赤い髪と褐色の肌をした2メートルを超える巨躯である。



「短期間だろうが何だろうがウチの隊にいるには違いねェ。入隊希望者には試験を受けさせるのが決まりだろうが」

「彼女は文官です。戦闘要員ではない」

「オメェ、竜に乗れんのか?」


 ヴァルトラムはトラジロを無視してビシュラに直接問い掛けた。


「い、いいえ」


 ビシュラは後ろを振り返り、ぶんぶんっと首を横に振る。
 訊ねるまでもなく当然だ。竜を駆るには特別な才覚と努力が要る。三本爪飛竜騎兵大隊隊員といえども騎乗できる者は二割にも満たず、余人にできる業ではない。


「じゃあ俺の下に付くんだろ。なら俺が相手してやらァ」

「なっ……」


 途端にトラジロの顔色が変わった。


「ヴァルトラム歩兵隊長さまのお相手などわたしには到底……っ」


 ヴァルトラム歩兵隊長の噂は悪名高い。軍部と研究機関という全くの畑違い、しかも新人のビシュラまでがその名を知っている。
 身分にしても能力にしても風貌にしても畏怖の対象であり、決して逆らうことや抗うことが許されない存在。だからこそ咄嗟のことだったとはいえ拳を上げてしまったときは血の気が引いた。
 逆鱗に触れあの場で殺されてしまうとビシュラは本気で思ったのだ。


「オメェの腰の剣は飾りか? 二本も挿しててそりゃねェだろう。なァ、嬢ちゃん」

「飾りではありませんが、武器という訳でも……」

学院(ギムナジウム)は出てんだろうが。戦い方の一つや二つ、習ってきてんだろ」


 ビシュラを追い詰めるヴァルトラム。
 トラジロは天尊のほうに顔を向けた。


「ヴァルトラムに何とか仰有ってください、総隊長」


 天尊が話に出てくると場がピタリと停止した。この場の全ての決定権は総隊長である天尊の掌の上だ。

 ヴァルトラムは目だけを動かして天尊を見る。天尊とヴァルトラムは視線を数秒間かち合わせていた。
 以心伝心というほどに仲良しこよしという訳ではないから、お互いに腹の探り合いでもしていたのかも知れない。
 しかしながら大抵の場合ヴァルトラムの腹の中には何も無い。何かを隠し持つほど器用でも気長でもなく、まどろっこしいことは好まない。したいことしかせず、言いたいことしか言わない。

 故にこの男がビシュラを試したいと言うのなら、純粋にその為の好奇心しか持ち合わせていないのだ。


「好きにしろ、戦闘馬鹿」

Ja(ヤー)


 ヴァルトラムはニヤッと笑ってソファから腰を持ち上げた。


「総隊長!」


 天尊の言葉はトラジロの予想を裏切る者だった。
 トラジロは恨めしそうに見てくるが、天尊はそれを敢えて無視した。


 ヴァルトラムがすぐ目の前にやって来てビシュラはビクッと全身を跳ね上げた。

 巨きい。その身長差たるや頭二つ分はある。筋肉に覆われた全身は硬そうでまるで岩壁かメタルだ。


「来い」

「えっ! えっ?」


 ヴァルトラムに顎でついてこいと指図され、ビシュラは途端にオドオドして部屋の中にいる全員の顔色を伺う。
 ヴァルトラムと天尊はそうすることを決定している風だし、反対してくれていたトラジロも最早諦めが見える。女性に至っては一言も発さず無関心。
 この場にはビシュラの味方など一人もいないのだ。


「その娘を試すのは構わねェが俺も立ち会う。俺が行くまで始めるなよ」

「なるべく早くしろ、総隊長。俺ァ気は長くねェ」




 ヴァルトラムと女性がビシュラを連れて部屋の中から出て行き、トラジロはいまだもって恨めしそうな目を天尊に向ける。


「何をお考えですか、総隊長。いきなり彼女にヴァルトラムの相手をさせるなど」

「遅かれ早かれ似たようなことになる。あの娘はその為に来たんだからな」

「人選されたイヴァン様には大変失礼ですが、私には彼女がヴァルトラム相手に何かできるようには見えません」


 天尊はクッと笑みを零した。


「俺の聞いてる話じゃ、多分あのビシュラって娘とヴァルトラムの相性は最悪だと思うぜ?」

「…………。面白がってらっしゃいますね、総隊長」


 天尊は否定しなかった。椅子から立ち上がり、笑いがこみ上げて緩くなっている口元を手で押さえる。


「さぁ、俺たちも行こうぜ。面白ェモンが見れたらいいな」





Fortsetzung folgt.

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