小説『ゾルダーテン』chap.01:双剣の女
トレーニングルーム。
隊員たちが日頃鍛錬を積む為にベース内に用意された部屋。内部にはものはほとんどない。長期の使用を前提としていないため簡素な造りだが、四方を頑丈な壁に囲まれている。
今から試験に立ち会う当事者しかおらず、伽藍堂になっているのはヴァルトラムが邪魔だと追い出したからだ。
ヴァルトラムと女性隊員は壁に寄りかかって天尊の到着を待つ。
ビシュラは二人から距離を取って縮こまっている。全身に力を入れてオドオドしてまるで狩られる前のウサギだ。
「何だって入隊試験をやるなんて言い出したんだ? 歩兵長。いつもは面倒臭がって人に丸投げするくせに」
それまで無関心そうにしていた女性隊員がヴァルトラムに問い掛けた。
『緋〔フェイ〕』
三本爪飛竜騎兵大隊歩兵隊所属二位官。
唯一の女性隊員でありながら、ヴァルトラムが長を務める歩兵隊内で序列二位に位置する猛者。
剛胆で淡泊な性格だが、確かな実力と面倒見の良さから彼女を慕う隊員も多い。
「まさか、あの子に喰らわされたことを根に持ってるワケじゃないよなァ? 小娘のパンチが効く訳でもあるまいし」
「パンチ? ああ、ンなこた忘れてた。ちょっと気になることがあんだよ」
「気になること?」
ヴァルトラムはそれ以上を語らなかった。
敢えて語りたくないのか、目の前の好奇心を満たすことで頭がいっぱいで言葉を考えるのが面倒なのか、とにかくこの男はこうなってしまったらもう駄目だ。人の話など真剣に聞く能力は無い。
ヴァルトラムの性格を分かっている緋は追求を諦めた。
「あの娘が《観測所》のモンだってこと忘れるな。ちゃんと手加減しろよ、歩兵長」
「あー?」
ヴァルトラムは既に緋のほうなど向いてもいなかった。ビシュラを視界の真ん中に据え、他のことに頓着などしていなかった。
「殺すなよ」
ヴァルトラムは口の端を引き上げてニヤリと笑うだけで緋に答えはしなかった。
程なくしてトラジロを伴った天尊が姿を現した。
天尊が部屋に入ってくるなりビシュラは弾かれるように駆け寄った。
「あ、あの、カルディナルロート総隊長さまっ」
表情を見れば助けを求めているのだろうということはすぐに分かった。
「わたしは本当にヴァルトラム歩兵隊長さまのお相手を務めなければならないのですか? 試験があるならば受けます。わたしでは役不足ならば従います。所長にもそのように御報告して別の者を差し向けてくださるように御手配致します。しかし『あのヴァルトラム歩兵隊長さま』と直接お手合わせ願うというのは剰りにも……その……」
トラジロが言う通り彼女は文官だ。見た目も気性もそれを表している。戦い方を知識や訓練として学んではいても実戦経験などありはしないのだろう。
そのような彼女がヴァルトラムを恐れてもなんら不自然ではない。
三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長ヴァルトラムは、戦場を司る魔物か鬼神――――。
その圧倒的な戦闘能力と好戦的気質、時として非人道的な手段を厭わない残虐性から、軍内部に留まらず畏怖され忌避されている。
「ビシュラ」
名前を呼ばれ、ビシュラはそうっと天尊の顔色を伺う。
ニッと微笑んでくる天尊総隊長。ほんの少しだけビシュラの緊張が和らぐ。
「お前が役不足かどうかを見極めるのがこの試験だ。そんなに気負うな。お前は自分にできることをやればいいだけだ」
(笑顔で誤魔化そうとしてるな、総隊長)
トラジロは天尊を横目に冷静な判断。
「わたしにできることなど、あるでしょうか……」
「お前はその為に寄越されたはずだ」
目の前にいる天尊でも聞き逃してしまいそうなほど小さな声で「はい」と零したきり、ビシュラは俯いてしまった。
「そろそろ始めるとしようぜ」
ヴァルトラムは壁から離れ、部屋の中央のほうへ歩いて行く。
ビシュラはふと緋と目が合った。親指でクイッと回してヴァルトラムのほうを指す。お前も行けという意味だ。
ビシュラとヴァルトラムは部屋の中央に対峙して立った。二人の距離は3メートル程度。
「ヴァルトラム歩兵隊長さま」
「何だ」
「あのぉ……入隊試験が模擬試合ならばわたしは不合格です」
「…………」
なんとも心細そうな声を出す。ヴァルトラムは怯えているビシュラの姿をじっと見る。
「学院( を卒業しているといってもお恥ずかしながらわたしは文科コースでも実技の成績はあまり芳しいほうではなく……。実戦部隊の、しかも高名な三本爪飛竜騎兵大隊( の試験に合格できるとは到底思えません。しかもヴァルトラム歩兵隊長さま自らお相手くださるなんて身に余る――」
ヒュッ。
ヴァルトラムの手が動いたが何をしたか分からなかった。だがビシュラのすぐ近くを何かが高速で通過したのは感じた。
ドゴォオンッ!
ヴァルトラムの手が動いたと思った次の瞬間、ビシュラの後方の壁が爆発した。
「なっ……」
ビシュラは顔色を変えて振り返った。
一本のナイフがほぼ垂直に深々と突き刺さり、大きな亀裂を作って壁を割っていた。
まさかあれはヴァルトラムが放ったナイフか。ナイフ一本で何という破壊力だ。あのようなもの、ビシュラの細腕に受け止められるはずがない。
「ゴチャゴチャ煩ェ」
「あっあぁ……」
今一度免除を求めようとしたが上手く言葉が出てこない。
恐い。
生まれて初めて見た大蜘蛛に追い掛けられたときと同様の、否、それ以上の不気味さと恐怖で頭も胸も覆い尽くされて言葉にならない。
恐い。
三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長ヴァルトラムは、鬼人か魔物。噂は嘘などではなかった。
「喋ってる暇あったら得物抜いて構えろ。じゃなきゃオメェは死ぬ、それだけだ」
ビシュラの顔面蒼白に向かってヴァルトラムは無慈悲に言い放った。
天尊とトラジロは壁に突き刺さったヴァルトラムのナイフを横目に見る。
「設備をなるべく壊すな、ヴァルトラム」
「今のヴァルトラムに何を仰有っても無駄です、総隊長」
「もう聞いてねェか」
天尊はやれやれと肩を竦め、トラジロははぁと溜息を吐いた。
きゅっ。
ビシュラは腰の左右に携えている剣の柄を握る。
天尊たちにも分かるくらい手が震えている。あの手付きでは動いていないものでも上手く切ることはできないだろう。
ビシュラが抜き放った双剣。
薄く軽く流麗な、刃毀れ一つ無い真っ新な刀身。照明を照り返して輝き出しそうな程だ。
「オメェ、使ったことあんのかソレ」
ヴァルトラムの声が近くで聞こえ、ビシュラはハッとした。
何故目の前に立っている。さっきまで充分な間合いがあったのに。いつ動いたのか、動作が一切目で追えない。
気付いたときには視界に大きな拳。
ビシュラは咄嗟に双剣を十字に構えた。
「っ!」
ガチィンッ!
ビシュラのウェイトでヴァルトラムの拳を受け止められる訳がない。足が浮き体が吹き飛ばされ、床をゴロゴロと転がって壁に激突した。
「あのバカ、加減しろっつったのに」
緋はチッと舌打ちした。
「オイ、オッサン! こんな小娘相手に何やってる。歩兵長のクセに満足に力加減もできないのかッ」
「これでめい一杯だ。これ以上はできねェ」
「このポンコツが!」
ビシュラから「うう……」とか細い呻き声。緋がそちらを見ると、双剣を両手に握ったビシュラが弱々しく立ち上がるところだった。
既に涙目。だがヴァルトラムを正面に見据え、天尊のほうへ助けを求めることはしなかった。無論緋を一瞥することもなかった。
(あれで加減してるって、本当に本気でやらないと殺される……っ)
周囲の者に助けを求めることを片隅に追いやってしまうほど、ビシュラの頭の中は生存本能で占められていた。
周囲の者の存在を掻き消してしまうほどにヴァルトラムが恐ろしいのだ。目を逸らしたら一足飛びに喉元を掻き切られる、四肢を八つ裂きにされる。
禍々しいまでに強大な力と冷酷さを持つヴァルトラムには容易いことだ。
ヴァルトラムの大きな手が近付いてくる。この手に捕らえられてしまったらきっと命を握り潰されてしまう。
目だ。ヴァルトラムの目には慈悲がない。生き物の気色がしない。
人々を地獄に引き摺り込む魔物の眸だ。
ビシュラは歌う。
己の内なるもの外から来るもの有象無象を一つに束ねる短い歌を。
――――《無間地獄( 》
歌が終わり、小さき世界は廻転を止める。
ビシュラが魔法のような不思議な力――――プログラムを発動させた瞬間、ヴァルトラムの手がピタリと停止した。
もう少しでビシュラの首を捕まえようかというところで停止し、指一本動かなくなってしまった。
「間に合った……」
ビシュラは一息吐くと力が抜け、壁に寄りかかってずるずると座り込んでしまった。
ヴァルトラムは自身に何が起こっているのか全く分からなかった。ビシュラが何かしらプログラムを使っているということは分かるが、それが何なのか皆目見当が付かない。凡人が使用する有り触れたものではなく、初めて目にするプログラムだからだ。
(何だこりゃ。体が動かねェ。細かいことは分からねェがピクリともしねェ)
座り込んだ状態から見上げるとヴァルトラムと目が合い、ビシュラはビクッと肩を跳ね上げた。ヴァルトラムがとても不愉快そうな鬼の形相で睨んでいるからだ。
「テメェ、何だこりゃ。何しやがった」
(全開出力なのに喋れるなんて!)
身動きなどできなくとも眼力だけでビシュラの鼓動くらい止めることができるのではないだろうか。
ビシュラは双剣を握り締めたままガタガタと震える。
「お見事です、ビシュラ」
トラジロに声をかけられ、ビシュラはハッとした。
トラジロから差し出される手を取り、引き上げてもらった。
「ここまで見事にヴァルトラムを行動停止にできるとはな」
「面白半分に何の警戒も無く飛び込んだりするからですよ。これが歩兵長とは、情けない」
天尊とトラジロは動けなくなったヴァルトラムに向かって同情などしなかった。天尊は愉快そうにクックッと笑っているし、トラジロに至っては馬鹿にしている様子だ。
「この娘は、大猿の金の輪っかってところだ」
「あァ?」
ヴァルトラムは自由になる目だけを動かして天尊を見る。
天尊は白い歯を剥き出しにしてニヤッと笑った。
「こっちはこんな湿っぽいところにはとっくに飽き飽きしてんだよ、このクソ戦闘馬鹿」
「この地域での作戦は終了したというのにあなたがここを動こうとしないからです。こんなところでいつまでも遊んでいる暇は無いのですよ、ヴァルトラム」
「テメェ等……」
天尊はヴァルトラムの背中をパンッと叩いた。そしてクルッと背中を向けて歩き出した。
「さあ、イーダフェルトへ帰還だ」
Fortsetzung folgt.
隊員たちが日頃鍛錬を積む為にベース内に用意された部屋。内部にはものはほとんどない。長期の使用を前提としていないため簡素な造りだが、四方を頑丈な壁に囲まれている。
今から試験に立ち会う当事者しかおらず、伽藍堂になっているのはヴァルトラムが邪魔だと追い出したからだ。
ヴァルトラムと女性隊員は壁に寄りかかって天尊の到着を待つ。
ビシュラは二人から距離を取って縮こまっている。全身に力を入れてオドオドしてまるで狩られる前のウサギだ。
「何だって入隊試験をやるなんて言い出したんだ? 歩兵長。いつもは面倒臭がって人に丸投げするくせに」
それまで無関心そうにしていた女性隊員がヴァルトラムに問い掛けた。
『緋〔フェイ〕』
三本爪飛竜騎兵大隊歩兵隊所属二位官。
唯一の女性隊員でありながら、ヴァルトラムが長を務める歩兵隊内で序列二位に位置する猛者。
剛胆で淡泊な性格だが、確かな実力と面倒見の良さから彼女を慕う隊員も多い。
「まさか、あの子に喰らわされたことを根に持ってるワケじゃないよなァ? 小娘のパンチが効く訳でもあるまいし」
「パンチ? ああ、ンなこた忘れてた。ちょっと気になることがあんだよ」
「気になること?」
ヴァルトラムはそれ以上を語らなかった。
敢えて語りたくないのか、目の前の好奇心を満たすことで頭がいっぱいで言葉を考えるのが面倒なのか、とにかくこの男はこうなってしまったらもう駄目だ。人の話など真剣に聞く能力は無い。
ヴァルトラムの性格を分かっている緋は追求を諦めた。
「あの娘が《観測所》のモンだってこと忘れるな。ちゃんと手加減しろよ、歩兵長」
「あー?」
ヴァルトラムは既に緋のほうなど向いてもいなかった。ビシュラを視界の真ん中に据え、他のことに頓着などしていなかった。
「殺すなよ」
ヴァルトラムは口の端を引き上げてニヤリと笑うだけで緋に答えはしなかった。
程なくしてトラジロを伴った天尊が姿を現した。
天尊が部屋に入ってくるなりビシュラは弾かれるように駆け寄った。
「あ、あの、カルディナルロート総隊長さまっ」
表情を見れば助けを求めているのだろうということはすぐに分かった。
「わたしは本当にヴァルトラム歩兵隊長さまのお相手を務めなければならないのですか? 試験があるならば受けます。わたしでは役不足ならば従います。所長にもそのように御報告して別の者を差し向けてくださるように御手配致します。しかし『あのヴァルトラム歩兵隊長さま』と直接お手合わせ願うというのは剰りにも……その……」
トラジロが言う通り彼女は文官だ。見た目も気性もそれを表している。戦い方を知識や訓練として学んではいても実戦経験などありはしないのだろう。
そのような彼女がヴァルトラムを恐れてもなんら不自然ではない。
三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長ヴァルトラムは、戦場を司る魔物か鬼神――――。
その圧倒的な戦闘能力と好戦的気質、時として非人道的な手段を厭わない残虐性から、軍内部に留まらず畏怖され忌避されている。
「ビシュラ」
名前を呼ばれ、ビシュラはそうっと天尊の顔色を伺う。
ニッと微笑んでくる天尊総隊長。ほんの少しだけビシュラの緊張が和らぐ。
「お前が役不足かどうかを見極めるのがこの試験だ。そんなに気負うな。お前は自分にできることをやればいいだけだ」
(笑顔で誤魔化そうとしてるな、総隊長)
トラジロは天尊を横目に冷静な判断。
「わたしにできることなど、あるでしょうか……」
「お前はその為に寄越されたはずだ」
目の前にいる天尊でも聞き逃してしまいそうなほど小さな声で「はい」と零したきり、ビシュラは俯いてしまった。
「そろそろ始めるとしようぜ」
ヴァルトラムは壁から離れ、部屋の中央のほうへ歩いて行く。
ビシュラはふと緋と目が合った。親指でクイッと回してヴァルトラムのほうを指す。お前も行けという意味だ。
ビシュラとヴァルトラムは部屋の中央に対峙して立った。二人の距離は3メートル程度。
「ヴァルトラム歩兵隊長さま」
「何だ」
「あのぉ……入隊試験が模擬試合ならばわたしは不合格です」
「…………」
なんとも心細そうな声を出す。ヴァルトラムは怯えているビシュラの姿をじっと見る。
「学院
ヒュッ。
ヴァルトラムの手が動いたが何をしたか分からなかった。だがビシュラのすぐ近くを何かが高速で通過したのは感じた。
ドゴォオンッ!
ヴァルトラムの手が動いたと思った次の瞬間、ビシュラの後方の壁が爆発した。
「なっ……」
ビシュラは顔色を変えて振り返った。
一本のナイフがほぼ垂直に深々と突き刺さり、大きな亀裂を作って壁を割っていた。
まさかあれはヴァルトラムが放ったナイフか。ナイフ一本で何という破壊力だ。あのようなもの、ビシュラの細腕に受け止められるはずがない。
「ゴチャゴチャ煩ェ」
「あっあぁ……」
今一度免除を求めようとしたが上手く言葉が出てこない。
恐い。
生まれて初めて見た大蜘蛛に追い掛けられたときと同様の、否、それ以上の不気味さと恐怖で頭も胸も覆い尽くされて言葉にならない。
恐い。
三本爪飛竜騎兵大隊の歩兵隊長ヴァルトラムは、鬼人か魔物。噂は嘘などではなかった。
「喋ってる暇あったら得物抜いて構えろ。じゃなきゃオメェは死ぬ、それだけだ」
ビシュラの顔面蒼白に向かってヴァルトラムは無慈悲に言い放った。
天尊とトラジロは壁に突き刺さったヴァルトラムのナイフを横目に見る。
「設備をなるべく壊すな、ヴァルトラム」
「今のヴァルトラムに何を仰有っても無駄です、総隊長」
「もう聞いてねェか」
天尊はやれやれと肩を竦め、トラジロははぁと溜息を吐いた。
きゅっ。
ビシュラは腰の左右に携えている剣の柄を握る。
天尊たちにも分かるくらい手が震えている。あの手付きでは動いていないものでも上手く切ることはできないだろう。
ビシュラが抜き放った双剣。
薄く軽く流麗な、刃毀れ一つ無い真っ新な刀身。照明を照り返して輝き出しそうな程だ。
「オメェ、使ったことあんのかソレ」
ヴァルトラムの声が近くで聞こえ、ビシュラはハッとした。
何故目の前に立っている。さっきまで充分な間合いがあったのに。いつ動いたのか、動作が一切目で追えない。
気付いたときには視界に大きな拳。
ビシュラは咄嗟に双剣を十字に構えた。
「っ!」
ガチィンッ!
ビシュラのウェイトでヴァルトラムの拳を受け止められる訳がない。足が浮き体が吹き飛ばされ、床をゴロゴロと転がって壁に激突した。
「あのバカ、加減しろっつったのに」
緋はチッと舌打ちした。
「オイ、オッサン! こんな小娘相手に何やってる。歩兵長のクセに満足に力加減もできないのかッ」
「これでめい一杯だ。これ以上はできねェ」
「このポンコツが!」
ビシュラから「うう……」とか細い呻き声。緋がそちらを見ると、双剣を両手に握ったビシュラが弱々しく立ち上がるところだった。
既に涙目。だがヴァルトラムを正面に見据え、天尊のほうへ助けを求めることはしなかった。無論緋を一瞥することもなかった。
(あれで加減してるって、本当に本気でやらないと殺される……っ)
周囲の者に助けを求めることを片隅に追いやってしまうほど、ビシュラの頭の中は生存本能で占められていた。
周囲の者の存在を掻き消してしまうほどにヴァルトラムが恐ろしいのだ。目を逸らしたら一足飛びに喉元を掻き切られる、四肢を八つ裂きにされる。
禍々しいまでに強大な力と冷酷さを持つヴァルトラムには容易いことだ。
ヴァルトラムの大きな手が近付いてくる。この手に捕らえられてしまったらきっと命を握り潰されてしまう。
目だ。ヴァルトラムの目には慈悲がない。生き物の気色がしない。
人々を地獄に引き摺り込む魔物の眸だ。
ビシュラは歌う。
己の内なるもの外から来るもの有象無象を一つに束ねる短い歌を。
――――《無間地獄
歌が終わり、小さき世界は廻転を止める。
ビシュラが魔法のような不思議な力――――プログラムを発動させた瞬間、ヴァルトラムの手がピタリと停止した。
もう少しでビシュラの首を捕まえようかというところで停止し、指一本動かなくなってしまった。
「間に合った……」
ビシュラは一息吐くと力が抜け、壁に寄りかかってずるずると座り込んでしまった。
ヴァルトラムは自身に何が起こっているのか全く分からなかった。ビシュラが何かしらプログラムを使っているということは分かるが、それが何なのか皆目見当が付かない。凡人が使用する有り触れたものではなく、初めて目にするプログラムだからだ。
(何だこりゃ。体が動かねェ。細かいことは分からねェがピクリともしねェ)
座り込んだ状態から見上げるとヴァルトラムと目が合い、ビシュラはビクッと肩を跳ね上げた。ヴァルトラムがとても不愉快そうな鬼の形相で睨んでいるからだ。
「テメェ、何だこりゃ。何しやがった」
(全開出力なのに喋れるなんて!)
身動きなどできなくとも眼力だけでビシュラの鼓動くらい止めることができるのではないだろうか。
ビシュラは双剣を握り締めたままガタガタと震える。
「お見事です、ビシュラ」
トラジロに声をかけられ、ビシュラはハッとした。
トラジロから差し出される手を取り、引き上げてもらった。
「ここまで見事にヴァルトラムを行動停止にできるとはな」
「面白半分に何の警戒も無く飛び込んだりするからですよ。これが歩兵長とは、情けない」
天尊とトラジロは動けなくなったヴァルトラムに向かって同情などしなかった。天尊は愉快そうにクックッと笑っているし、トラジロに至っては馬鹿にしている様子だ。
「この娘は、大猿の金の輪っかってところだ」
「あァ?」
ヴァルトラムは自由になる目だけを動かして天尊を見る。
天尊は白い歯を剥き出しにしてニヤッと笑った。
「こっちはこんな湿っぽいところにはとっくに飽き飽きしてんだよ、このクソ戦闘馬鹿」
「この地域での作戦は終了したというのにあなたがここを動こうとしないからです。こんなところでいつまでも遊んでいる暇は無いのですよ、ヴァルトラム」
「テメェ等……」
天尊はヴァルトラムの背中をパンッと叩いた。そしてクルッと背中を向けて歩き出した。
「さあ、イーダフェルトへ帰還だ」
Fortsetzung folgt.