小説『ゾルダーテン』chap.01:暗愚と盲目

 イーダフェルト南エリア・《観測所》。

 《観測所》はミズガルズを常時観測し続けると同時に、アスガルト最高峰の研究施設である。
 施設は天高く聳える三本の塔と地下から成る。地下施設はほとんどが研究施設である。地上に突き出す三本の塔のうち中央が最も背が高く、その最上部には所長が座している。


 中央棟所長室。


「失礼致します!」


 ガーッとドアが左右に開き、一人の所員が飛び込んできた。


「所長っ、所長!」

「何を慌てている」


 所長であるイヴァンとデスクを挟んで何やら話をしていた人物――――イヴァンの補佐たる副所長は、取り乱している所員を見て少々呆れ顔だ。
 所員はイヴァンのデスクにバタバタと足早に近付いてくる。所長に対する礼節を少なからず失念するほどには慌てふためいており、大きな身振りで話し始める。


「い、今、正面ゲートに三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)の歩兵隊長殿がおいででございます! ま、まさかあのヴァルトラム歩兵隊長殿が、と、とうとう直々にいらっしゃるとは予想外でございました。い、些か準備の程が……っ」

「落ち着きなさい。こちらは既にカメラで把握しています」


 イヴァンに代わって副所長が答えた。
 イヴァンは自分のデスクに目を落とす。デスクの表面から僅かに浮いた平面に疑似ディスプレイが表示されており、そこには赤髪の大男と桃色の髪の女性隊員が所内を移動する姿が映し出されている。


「ヴァルトラム歩兵隊長殿、フェイ歩兵隊二位官殿は所長への直接の謁見を求めておいでです。御両名直々の御訪問となるとお断り申し上げるのは難しく……っ」


 所員の表情は明らかにイヴァンたちに助けを求めている。三本爪飛竜騎兵大隊の相手など普通の所員には手に余る。
 副所長は所員からイヴァンのほうへと顔を移動させる。


「御訪問の目的は言わずと知れていますが、如何なさいますか? 所長」

「“あのヴァルトラム歩兵隊長”から御丁寧に書状が届くなど槍でも降るのかと思っていたが、ついに業を煮やしたという訳だ」


 所員は天変地異でも起きたかと動転しているのにイヴァンは随分の暢気に構えている。否、彼が慌てたり焦ったりする場面など副所長ですら見たことがない。
 まるで全てのことを識っていたかのように、そうなることが分かっていたかのように、冷静に受け流してしまう。


「追い返す訳にもいくまい。所員に相手をさせたのでは怪我人では済まないだろうからな」

「警備兵を呼びますか」

「いやいや。折角の御足労だ。こちらも労に応えようではないか」






 黒の装束に瑠璃色のマントを垂らした三本爪飛竜騎兵大隊の正装。
 実戦部隊の三本爪飛竜騎兵大隊が式典以外で正装を纏うことは珍しい。それに身を包み帯刀し凛と立つヴァルトラムと緋は並の所員では近付きがたい威厳を放っていた。


 ガッ、ガッ、ガッ、ガッ。


 ヴァルトラムは重たい靴底を鳴らし、マントをたなびかせ、所内の廊下を我が物顔で進んでゆく。緋もそれに続いた。

 研究者・科学者が詰める《観測所》において軍服を羽織ったヴァルトラムと緋は異質な存在。誰もが二人を注視するが近付こうとはしない。
 二人が訪れた時に運悪く一番最初に応対してしまった所員だけが、もう泣き出しそうな顔で後を追い掛ける。
 ここは研究者の聖域。分野違いの乱暴者に勝手をしてもらっては困るのだ。


「お、お待ちください、ヴァルトラム歩兵隊長殿。ここは研究施設であり、デリケートな機材や生物を数多く所有しております。関係者以外の出入りを禁じているエリアも多く御座います。そ、そのように御自由に出歩かれては困りますっ」


 緋はカッと踵を鳴らして足を止め、所員のほうを振り返った。


「いつまでお待たせするつもりか、無礼者。こちらはエインヘリアル三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)歩兵隊長ヴァルトラム大尉で在られるぞ」


 いつもよりも意識して厳しい口調で言い放ち、所員へと睨みを利かせる。


「早々にイヴァン所長へお取り次ぎ願おう」

「し、しかし所長は多忙を極めております。突然の御訪問ではお取り次ぎ難しく……」

「所長殿がお忙しい身で在られることは承知している。おいで叶わぬならばこちらから参るまで」


 緋は所員からフイッと顔を逸らして歩き出した。そして先行していたヴァルトラムに早歩きで追い付いた。


「オメェはこういうときは様になるな」

「あー、うるせぇうるせぇ。ぶん殴りたくなるから黙ってろ」


 緋は、後方でパタパタと足音を立てている所員には聞こえないくらいの小声で言った。

 ヴァルトラムは軍服の詰め襟の隙間に指を突っ込んだ。そしてグイと引っ張って詰め襟と首との間に空間を作る。


「しかし《観測所》に来るだけで何でこんな堅苦しいカッコしなくちゃいけねェんだ」

「そう言うな。思ったより様になってる。こういう連中には虚仮威しがあったほうが話が通じやすい」

「俺にゃよく分かんねェが、オメェがそう言うならそうなんだろ」


 緋はヴァルトラムが観測所の内部を無作為に進んでいるのかと思っていたが、どうやら違うらしいということに気付いた。一定の間隔で足を止めてはその場に数秒間留まり、フラッと周囲を見回してまた歩き出す。これを何度も繰り返している。

 その行動を妙に思った緋は、二、三歩の間を素早く詰めてヴァルトラムの隣に立った。


「歩兵長。さっきからデタラメに歩き回ってると思ってたがアンタもしかして」

「まぁ待て。初めての場所は俺でも時間がかかる」


 緋の勘は当たっていた。ヴァルトラムは持ち前の尋常ならざる嗅覚や聴覚を駆使してこの広い建造物の中からビシュラを探し当てようとしている。
 そのようなことが本当に可能であるのかは分からないが、ヴァルトラムに問題を起こされては困る。権威を笠に着て無理を通そうという、緋の誰も傷付けない被害が最小限の計画が水泡に帰す。


「オイ、アタシたちは強盗や人攫いに来たんじゃない。正攻法じゃないと意味が無いんだぞ、分かってるのか」


 ヴァルトラムから返答は無かった。緋はチッと舌打ち。

 パタパタパタと先程よりも急いだ小走りの足音。ずっと後方についてきていた所員とは別の者が駆け寄ってきた。


「所長がいらっしゃいました。ヴァルトラム歩兵隊長殿、フェイ二位官殿、御両名ともどうぞこちらへ」

「俺ァこっちに用がある。所長って野郎の相手は任せた」


 折角《観測所》の長でありビシュラと浅からぬつながりを持つであろうイヴァンまで辿り着けるというのに、当のヴァルトラムはそちらへの関心を無くしてしまっている。
 緋が「オイッ」と背中に声をかけたがまるで聞こえていないかのように無視。人一倍耳はいいくせに巫山戯ている。

 大物を引っ張り出してしまったからには無視をする訳にもいかない。緋はこの際ヴァルトラムを放っておくことにした。


 緋の目的は正攻法に則ってビシュラを手に入れること。つまりはビシュラの上長たるイヴァンへの直談判だ。
 「ヴァルトラム歩兵隊長」の名で正式な書状は何通も送付した。自分は名実共に歩兵隊の二位官であり歩兵隊長の名代として不足無い。あとは書状通りの要求を所長に直接突き付け「云」と言わせるだけでよい。
 考えてみればヴァルトラムのような粗野な男は交渉事には同席しないほうが都合がよいかも知れない。


「あの、ヴァルトラム歩兵隊長殿は……?」

「歩兵隊長殿はこちらの施設の素晴らしさに御興味を持たれている。しばし御見学なさりたいそうだ。イヴァン所長へは私が御挨拶へ参る。案内を」





   §§§§§





 緋と分かれた後もヴァルトラムは所内を徘徊していた。
 地位だけは高いがそれ以上に悪名も轟かせているヴァルトラムから目を離す訳にもいかず、数人の所員が一定の距離を取って後方からついてゆく。

 ヴァルトラムは足を止め、鼻をスンスンと動かす。


(だいぶ近付いちゃいるはずだが、この建物ン中ァどこもかしこも薬品臭くてイマイチ鼻が効かねェな)


 内部の構造も分からない初めての場所で「近くなっている」と自信が持てるだけ、充分に常軌を逸した感覚の持ち主だと思うが。

 あとは、ヴァルトラムは勘や運もよいほうだ。こんな乱暴者で粗忽な男に天命は何故か味方することが多い。
 巨大すぎる力を持つ者は、支配する側だと約された者は、望むもの欲しいものを引き寄せてしまうのかも知れない。



「それでは失礼致します」


 不意に近くの扉が開き、廊下にビシュラが出てきたときは、流石のヴァルトラムもよくできた冗談だと疑った。
 宏大な荒野において腹を空かせた獣の前にウサギのほうから飛び込んで来るなど、こんな幸運がそうそうあるか。

 だがそれは、ウサギにとってはとんでもない不運に違いない。


「やっと見付けたぜ、ビシュラ」


 その声に惹かれるように顔を上げ、ビシュラは電撃に打たれた。
 その姿を、その存在を、その脅威を目にした瞬間、ビシュラはその場に縫い止められた。

 まさか此処にいるはずが無い。
 ここはビシュラの世界。ビシュラが還りたがった元いた世界。閉ざされて緩やかに穏やかな時間が支配するはずの世界。
 ここには魔物など存在しないはずなのに。



「あ……あ……ヴァルトラム、歩兵隊長、さま……」


 ビシュラは手に持っていたファイルを取り落とした。本能的に壁際へ逃げる。だが背中がぶつかってすぐに行き場を無くした。
 ヴァルトラムはビシュラとの距離を詰め、更に彼女を追い詰める。

 ヴァルトラムはビシュラを両手の間隔に挟み壁に手を突いた。
 彼女の世界は一気に狭くなった。眼前の巨躯に阻まれて視界が翳る。身動きが取れないほどに、息苦しいほどに、一切の自由が許されないほどに、此処は狭い。
 此処には何も無い。何を持つことも許されない。わたしさえわたしのものではない。
 ヴァルトラムによって閉じられた狭い狭い世界だ。支配者はヴァルトラム、ビシュラは捕らえられた哀れなウサギ。


 ビシュラを己の両腕の間に捕らえてそれきり、ヴァルトラムは沈黙した。
 ビシュラのほうからは声を発するはずがなかった。ヴァルトラム自身も、ヴァルトラムに捕まえられているこの状況も、彼女には恐ろしくて堪らないのだから。

 恐れ戦いているビシュラがただただ凝視していると、ヴァルトラムの唇がゆっくりと動いた。



「フェイは正攻法だ正規の手順だと煩ェが、オメェを目の前にするとどうでもよくなるな。このまま攫っちまうか――……」



 何度も聞いた低い声なのに、思ったよりもずっとずっと穏やかだった。


「ヴァルトラム歩兵隊長さま……?」


 嗚呼、何と愚かしいことなのか。
 嗚呼、心も体もこんなにも震えているというのに。
 恐怖と畏怖の渦中にあってもやはりスマラークトの眸は美しい。



「オメェの為に迎えに来てやった。俺のモンになれ」

「何故そのようなことを仰有るのです? あなたはもう自由の身。何処へでも行って好きなことがおできになるのに」

「あぁ、だからオメェのところに来た」


「何故わたしなのか」――――その答をビシュラは弾き出していた。
 獲物に逃げられたのが口惜しかったから。一度は手に入れたのに横から掠め取られたようで気に食わなかったから。
 逃げた獲物を追うのは獣の本能。獣の考えなどそのようなものだ。本能のままに行動しているだけだ。


「もう、わたしに構わないでください」


 スマラークトの魔術に惑わされてしまわないように、ビシュラはヴァルトラムから顔を背けた。


「今のあなたにならわたしでなくともいくらでもお相手はいらっしゃるはず」

「俺ァオメェがいい。だから迎えに来てやった。ここまでしてやってんだ、これ以上手間ァ取らせんな」

「わたしは嫌です」


 両腕の狭間に捕らえているビシュラに拒まれて相当苛立っているらしい。「チッ」とヴァルトラムの舌打ちが聞こえた。
 ヴァルトラムが気に留めないそんな些細な仕草の一つ一つがビシュラには恐ろしい。
 本当に機嫌を損ねてしまったら、逆鱗に触れてしまったら、喉を掻き切られることくらい容易に想像できる。此処が何処であれビシュラが何者であれ、気にするような男ではないことは重々承知している。


「そんなに俺が嫌いかオメェ」


 今更そんなことを訊くのですか。
 あんなにも決定的に徹底的に絶対的に酷い仕打ちをしておいて、まるで身に覚えが無いかのように振る舞うのですね。
 あんなにも泣かせて悲しませて傷付けておいて、憎まれていないなどと、あなたのものになるなどと、どうして疑いもせず信じていられるのですか。



「あなたは……恐い――……」



 震える声が、ポツリと床に落ちた。


「わたしを壊してしまうことなどあなたには簡単なことです。あなたにはもう充分に傷付けられました。わたしが浅はかだったから……。もう許してください……。これ以上あなたにメチャクチャにされるのは嫌です……っ」


 後悔や自責の念はある。だがヴァルトラムを責める気持ちは無い。わたしが愚かだったのだ。
 このような男に恋をした。このような男に惹かれた。何も知らないわたしが愚かだったのだ。


 運命や神を呪ったりしません。
 己の暗愚を一生呪い続けます。

 だからもう許してください。
 だからだから、わたしを自由にしてください。



 既にビシュラを壁際に追い詰めているのに、ヴァルトラムは更に躙り寄った。
 額をゴツ、と壁にぶつけた。だがそのようなことは気にも留めず、眼下の震える少女を見詰め続ける。


「オメェを壊したりしねェ」


 ああ、そうだ。
 きっと簡単に壊れてしまうのだろう。
 ほんの少し強く抱いただけで。
 この生き物と自分とは大いに違う。
 優しく儚くか細く脆い存在。

 目の前にいる自分が心底恐ろしいだろうに抵抗という抵抗もせず逃げることも叶わず、ただ震えている少女を見ていると、そう思わされた。




「ビシュラ。精々大事にしてやる。だから俺のモンになれ」




 吐息が吹きかかるほど接近していながらも触れなかったのは、獣のような男が絞り出したせめてもの優しさだったのかも知れない。

 優しさ? 大事にする?
 そのようなことは今まで生きてきて考えたこともない。一日でも長く生き残れればラッキーで、ただ己の欲に忠実に生きてきた。
 だがこの少女はそうしなければ壊れてしまう。本気の力で抱いただけで脆くも息絶えてしまう。

 ビシュラには、ヴァルトラムにそうさせる魔法の力がある。
 それはきっと、ヴァルトラムが「妙な力」と称したあらゆるものを行動停止にしてしまうプログラムとも全く関係ない別の力。


 ヴァルトラムはビシュラの前髪をそっと掻き分ける。ビシュラが手を避けたり払い除けたりしなかったから、手前勝手に都合良くも自分は受け入れられたのだと解釈した。
 髪の毛を退けて露わになった狭い額にじっくりと口付けを落とした。


「俺のところへ来い、ビシュラ」


 名前を呼ばれる度にトクトクと心臓が息を吹き返す。
 唇が触れた額が熱い。握り潰されそうなほど胸が痛い。

 やはりわたしは愚かだ。救いようがなく愚かだ。
 こんなことを続けていたらいつか心も体もバラバラになってしまうと分かっているのに貴男に惹かれてしまうのをやめられない。
 求められたら心が応じてしまう。


「嫌だっつっても攫っていく。オメェが俺を嫌ってようが構いやしねェ。俺が俺のモンだと決めたからにはオメェは俺のモンだ」


 わたしの愚かさの前にはあなたの独善は剰りにも潔い。まるであなたのほうが正しいように錯覚してしまう。
 否、本当にあなたのほうが正しいのかも知れない。自分の気持ちに蓋をしたわたしより、自分の欲にただひたすらに盲目であるあなたのほうが生物として正しい。

 わたしは愚かだから、また間違えた。
 一生癒えないくらいあなたに傷付けられて、時間が止まるくらいあなたを見詰めたのだから、あなたに恋してしまうことは正しいのだ。

 ビシュラは困ったように眉を下げて微笑んだ。


「わたしはあなたのものです。だから、ちゃんと大事にしてくださいね……」





Fortsetzung folgt.

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