小説『ゾルダーテン』chap.01:恋心

 ヴァルトラムは常人よりも恐ろしく目や耳、鼻がよい。緋は何も教えなかったのに隊舎の中を歩き回り、勝手にビシュラまで辿り着いてしまった。
 緋は額を押さえる。ヴァルトラムの人並み外れた能力がこんなに憎らしかったときはない。

 両側を白い壁に挟まれ、黄金の刺繍を端にあしらった青い絨毯が一直線に延々と伸びる長い廊下。ヴァルトラムが足を止めたその先には、いまだこちらに気付いていないビシュラが歩いてくる。
 腕に書物とブリーフケースを抱えている。大方トラジロからの頼まれものだろう。


「よお」


 ビシュラはビタッと足を止めた。その場に縫い止められた。顔を上げず声も発さない。声の主が何者か分かっているからだ。
 恐い。体が動かない。呼吸が乱れる。魂が揺れる。あの男が恐い。


「ビシュラ」


 声が近付いてくる。早く踵を返して逃げ出さなければ、否、顔を上げて丁重な挨拶をしなければ。挨拶? あんな仕打ちを受けたのにまだ恭しく頭を下げるというのか? しかし身分の差を覆すことができないのは事実だ。正しい選択と行動は何だ。
 ダメだ、頭が混乱する。何も考えられないほど、恐い。


「顔を見せろ、ビシュラ」


 声はすぐ近くで聞こえた。ヴァルトラムはもう目の前に立っている。視界の端にヴァルトラムの爪先が見え、咄嗟に顔を逸らした。


「オイ。俺を無視するなんざいい度胸だな」

「ヴァルトラム、歩兵隊長、さま……」


 ビシュラの肩がビクッと跳ねた。本とブリーフケースを抱き締めながらどうにか絞り出した声は、震えていた。

 ヴァルトラムは双剣の片割れをビシュラに差し出した。ヴァルトラムへの恐れと途惑いで手を出すことができず、ビシュラはただ剣を見詰め続ける。
 「要らねェのか」と低い声で急かされ、やっと怖ず怖ずと手を出す。ビシュラの手が剣の柄に触れようとした瞬間、スッと高く掲げられた。
 剣を追い自然と目線が上がる。ヴァルトラムのスマラークトの瞳とかち合い、ビシュラは凍り付いた。

 怯えて凍り付いたビシュラの表情を見て、ヴァルトラムはニヤッと笑った。


「欲しけりゃオメェが俺のモンだって認めろ」


 「否」と答える代わりにヴァルトラムから顔を逸らした。そして逃れるように一歩後退る。頭で考えたのではなく自然と腰が引けてとってしまった行動だ。コツンと踵が壁に当たった。


「わ、わたしは……派遣期間を終え、本日《観測所》へ戻ります。もう……こちらへ参ることはございません」


 ガッ。


 ヴァルトラムが一気に間を詰めて壁に手を突いた。褐色の胸板が眼前に迫り、ビシュラの肩がカタカタと震える。


「行かせねェ。オメェは俺のモンだ」

「わたしは《観測所》の者です。どうか御容赦を……」

「それがどうした。《観測所》が何だ、派遣期間が何だ。俺にゃあ関係ねェ。オメェ、俺に逆らうのか、あァッ?」


 ヴァルトラムはビシュラに従えと言う。目も声も態度も全身で従えと命じる。命令することに慣れきっているこの男に、命令されることが当然であるビシュラのような者が服従せずに抵抗することはとても困難だ。
 だが、ビシュラは膝に力を入れてその場に踏ん張った。



「あなたに従うのだけは絶対に嫌です! 何があっても!」



 ヴァルトラムの眼下に晒されているのが恐ろしく、ヴァルトラムに対抗するのが恐ろしく、ビシュラは有りっ丈の声を張り上げた。そうしなければ抵抗などできなかった。

 言った。言った。言ってやった。決定的な反逆だ。これ以上ないと言うほど突きつけてやった。これで恐ろしき追っ手を拒絶できたと思うと解放感で軽く卒倒しそう。

 わたしは悪魔に捕らえられてなどいない。わたしは悪魔に従うことなどしない。わたしは元いた世界に還るのだから。



「テメェー……人が下手に出てりゃあ調子に乗りやがって」


 ヴァルトラムの表情が俄に険しくなったと思ったら片手に剣を掲げた。


「歩兵長ッ!」


 緋はハッとして弾かれたように声を上げた。

 ビシュラは目を大きく見開く。身動きなどできない。眼前の死から目を逸らすことなどできようはずもない。
 ヴァルトラムが掲げる白刃が、視界を一閃切り裂いた。


 ズガァンッ!


 剣はビシュラの顔の真横を通過して壁に突き刺さった。


「もう一本も返して欲しけりゃテメェで俺のトコまで取りに来るんだな!」


 ヴァルトラムは怒声を放った。そしてビシュラに背を向け、早足で歩き出した。
 緋と目が合い、忌々しげに盛大にチッと舌打ちした。更に速度を速めて歩いて行ってしまった。


 ヴァルトラムの背中が小さくなり、緋はホッと息を吐いた。


(歩兵長がマジでビシュラを殺すんじゃないかと思った……)


 その頃にはビシュラは脚から力が抜けてズルズルとへたり込んでいた。ヴァルトラムの存在に気付いてからずっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。

 緋は壁から剣を引き抜き、クルッと回して刃を指で挟むと柄のほうをビシュラに向けて渡してやる。ビシュラはそれを両手で受け取った。数日振りに自分の手に戻ってきた剣に目を落とす。
 相も変わらず新品同然。今の衝撃で刃毀れなどしなくて良かった。
 だが恐らく、対のもう一本をヴァルトラムの手から取り戻すのは容易ではあるまい。できれば二本とも無事に手許に戻ってきて欲しいものだが。


 今度は緋から掌を差し出される。その手を取ると、同性とは思えない力ですんなりと引き上げられた。


「《ウルザブルン》に訴えないのか?」

「ヴァルトラム歩兵隊長さまを、ですか?」

「お前、直々に選ばれるくらいだから所長からの覚えは悪くないんだろう? 所長に泣きついて上手くすれば懲罰・謹慎・降格、三本爪飛竜騎兵大隊(リントヴルムリッター)歩兵隊長の地位を剥奪、軍から追い出せれば万々歳だ」


 ビシュラはふるふる首を左右に振る。


「わたしはヴァルトラム歩兵隊長さまの地位を奪うつもりなどありません」

「自分を犯した男の心配してやるのか?」

「いいえ、自分のことしか考えていませんよ」


 ビシュラは困ったように笑った。


「わたしはこれ以上あの日のことを思い出させられることに耐えられません。あの仕打ちをもう一度思い知らされるくらいなら何もかもを無かったことに……忘れてしまいたいのです。今ならまだそれができます。わたしは元いた場所に戻り、二度とここへは参りません」


 ビシュラの目を潔く感じたのは、彼女が既に諦めてしまっているからだろうか。ついこの前知り合ったばかりの頃は弱っちくて甘ったれだった娘が、お遣いにやられた子どものようだった娘が、酸いも甘いも知ったような大人びた顔をする。
 それがヴァルトラムによって「女」にされたからだというのなら皮肉なことだ。この娘はもっと優しい世界で緩やかに歳をとっていくはずだったのに。


「フェイさんから見ると、わたしはとても臆病で情けないでしょうね……」

「そんなことはない。お前がアタシと同じである必要なんかない。お前はアタシと違っていいんだ」


 緋はやや俯き、悔しさに唇を噛む。お前が全てを受け入れ呑み込み、無かったことに帰したいと言うのなら、この怒りの矛先を何処へ向ければよい。




「わたしは……ヴァルトラム歩兵隊長さまに恋を、していたのかも知れません」




 緋はパッとビシュラのほうに顔を向け、眉間に皺を寄せる。


「正気か」

「そう仰有ると思いました」


 緋の怪訝そうな言葉も表情もビシュラの予想通りだった。
 だって自分だって自分を疑っている。自分で自分を非難している。どうしてあんな男なの、と。


「ヴァルトラム歩兵隊長さまのお姿を初めて拝見した日、助けていただいたあの時……」


 自分でも何故だかは分からない。
 自分のことなのに頭で理解できない。
 自分ではないように独りでに歩き出す。

 あの人に出逢ったあの瞬間、わたしのなかに生み落とされたもう一人のわたし。

 こんなわたしはわたしじゃないと、何度否定しても息を吹き返す。

 やめて。
 もうわたしを自由にして。
 わたしを振り回さないで。
 こんなわたしはわたしじゃない。


 真っ赤な雨の中で輝くスマラークトの瞳。
 鍛え抜かれた鋼の如き褐色の肢体。
 比類無き絶対強者の風格。

 強く憧れた。
 目を奪われた。
 胸が焼け焦がれた――――。



「勘違いじゃないのか。命を救われたから」

「どうなのでしょう。自分でももう分かりません……。けれど、ヴァルトラム歩兵隊長さまのお体が早く癒えることを願いました。ヴァルトラム歩兵隊長さまの為に何かしたいと思いました。名前を呼ばれたとき動悸がしました。無理矢理求められるまでわたしは確かにあの人が好きだったんです……」


 緋はビシュラから目を逸らし、チッと舌打ちした。


「莫迦なヤツ」

「自分でもそう思います」


 莫迦で愚図で鈍感で救いようが無い。誇れるものの少ない身だがこうまで自分に嫌気が差したことはない。
 物珍しさで傷付けられて、これ以上ないと言うほど踏み躙られて、それでも貴男が恋しいなどと宣ってしまうほど愚かでなくて良かった。


 あの日生まれた愚かなわたしは既に虫の息。
 一思いに息の根を止めて楽にする。

 貴男を恋しいなどとは思わない。
 貴男に恋をしたりなど金輪際しない。

 そうしてわたしはわたしを取り戻し、元いた場所へ帰るのだ。





Fortsetzung folgt.

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