小説『ゾルダーテン』chap.04:極寒の地へ02
グローセノルデン大公所領、居城の一・ヴィンテリヒブルク。
吹雪で埋め尽くされた視界に大地から突き出た爪牙のような城が突如として現れる。灰白の雪原の中に聳え立つ姿は、辛い旅路を乗り越えた安堵よりも孤高の厳格さを思わせる。
中枢都市イーダフェルトを発つこと数日、三本爪飛竜騎兵大隊は目的地に到着した。彼らがやって来た目的は無論、観光ではない。課せられた任務を果たす為にやって来た。
城壁塔や鋸壁に留まっている飛竜や、天空を旋回し舞っている飛竜、地上に降り立っている飛竜もいる。騎兵隊は先んじて到着し、総隊長である天尊( の到着を待っていた。
背丈よりも高い雪が積もり、城へ続く道は狭い。歩兵隊は隊列を細くして慎重に進み、城門を潜って中へと導かれた。
歩兵隊が着くなりズィルベルナーが駆け寄ってきた。
キョロキョロと見回し「あれ~?」と独り言を漏らしながらマクシミリアンの肩を叩いた。
「ビシュラちゃんは? 緋姐( のケツに乗ってたろ」
ビシュラ目当てで緋の近くに寄ってきたのに姿が無い。知っていそうなマクシミリアンに早速声を掛けた。
三本爪飛竜騎兵大隊には今まで年上の緋しか女性がいなかったから、年若く素直な質のビシュラが可愛くて仕方がないらしい。
「途中で歩兵長の車に乗り換えてたぞ。流石に寒さが厳しくなったからな。寧ろよく我慢したほうだ」
「歩兵長の車ってこれだろ」
ズィルベルナーは黒塗りの乗り物を指差す。マクシミリアンが「ああ」と応えると、何の遠慮もなく扉の取っ手を掴んだ。
「ビシュラちゃーん♪」
「ズィルビー、バカ! 最中だったらどうすんだ💦」
マクシミリアンはズィルベルナーの服を引っ張るが、図体だけは立派とあって力では敵わない。頭の中身は子どものままのくせに。緋は目の前で繰り広げられる男二人の攻防戦を他人顔で眺めている。
ズィルベルナーはマクシミリアンが止めるのも気にせず扉を開け放った。
ゴボォッ!
開けた瞬間、視界に飛び込んできた硬いものが顔面にぶち当たった。
ズィルベルナーは後ろに大きく仰け反り、どてんと尻餅をついた。飛んできたのは足の付いた菓子の皿。投げたのは間違いなくヴァルトラムであろう。
「誰が開けていいっつった、クソガキ」
やはり中からヴァルトラムの声。緋が中を覗き込むと、ヴァルトラムの腕の中に抱えられたビシュラが眠っていた。手には羽ペンを握ったまま。
「何だ、最中じゃなかったのか」
緋は拍子抜けしたように零した。ズィルベルナーのように無神経ではなく気を回す質の緋とマクシミリアンはそれを予想していたのだ。
「途中まで何か書類やってやがったが、もうずっと寝てんぞ」
「アンタの腕の中がよっぽど気持ちよかったんだろ」
マクシミリアンに助け起こされたズィルベルナーは面白くなさそうに「ちぇっ」と零した。
「歩兵長ばっかビシュラちゃんに懐かれてズリィな~~」
「何だ、ヤキモチか? ガキかよ」
マクシミリアンはズィルベルナーを指差して笑う。
「ビシュラちゃん着いたぜーっ」
面白くないズィルベルナーは扉をバンッバンッと叩きながら大声を出す。その行動が実に子どもっぽくて緋とマクシミリアンはアハハハと声を上げて笑う。
「あっ、ハイ! 寝てましたッ」
ズィルベルナーの声に驚いてビシュラはガバッと飛び起きた。
「申し訳御座いませんっ」
声量の所為で怒られたと思ったのかビシュラは反射的に頭を下げた。
それから急いでヴァルトラムから離れて車から降りた。ズィルベルナーにもペコペコと頭を下げるから、そんなつもりはなかったズィルベルナーのほうが申し訳なくなってしまう。
緋が車の中に顔を引き戻すと、ヴァルトラムのコートの上に羽ペンが落ちているのを見付けた。グレーの毛並みのコートに青黒いシミが一点。
「歩兵長。コートにインク」
「あァ、知ってる」
ズィルベルナーの声に驚いて飛び起きたときに手から取り落としたのだろう。
ヴァルトラムは羽ペンを拾い上げ、コートを肩から脱いでペンと共に緋に投げた。
「ビシュラに渡せ」
言われた通り緋はビシュラに羽ペンを手渡し、肩にコートを掛けてやった。ヴァルトラムにはハーフコートだったがビシュラにとってはロングコートだ。
ビシュラはヴァルトラムの顔を見て首を傾げる。
「ビシュラ。オメェ、薄いコートしか持ってきてねェんだろ。そのコートやるから着てろ」
「え。ですが歩兵長は」
「俺にゃあ別の上着がある」
ヴァルトラムがソファから立ち上がり一歩一歩歩む度に巨大な車体が揺れる。
車から降りてきたヴァルトラムは首の骨をゴキゴキッと鳴らした。長時間座ったままの体勢でいて縮こまってしまった筋肉を伸ばす。乗り物には部屋かと思うほどの充分な広さがあるがヴァルトラムの巨躯には狭かったらしい。
ヴァルトラムは腕をゴリゴリと大きく回しながらビシュラと緋の前を通過した。その後ろをマクシミリアンが付いていく。
ビシュラは緋の顔を見る。
「これ、きっととても高価なものですよね? 本当にいただいてしまってよいのでしょうか」
「まぁ、安くはないだろうな。大錫熊の毛皮だからな」
「そんな高いもの……!」
「本人がやるって言ってるんだから気にすることはない。歩兵長は金銭感覚バカだから」
「で、でも」
ビシュラの言葉を遮るように緋はコートのボタンを留めてやる。
「他に着るものが無いのは事実だろ。もらえないっていうならこっちにいる間だけ借りておけ。その薄着で外にいたら凍死するぞ」
寒さを甘く見て防寒が足りなかったのは自分の落ち度だから反論できない。此処で意地を張って体調を崩したらまた緋に気を揉ませてしまう。ビシュラは緋の提案に従うことに決めた。
見れば見るほど見事な毛皮で高そうなコート。これを簡単に人に譲ってしまえるとは、緋の言う通りヴァルトラムは金銭感覚に少々問題があるらしい。
コートを観察していてビシュラはある一点で目を留めた。
「あれ。コートにシミが」
「さっきズィルビーに声かけられて飛び起きたろ。その時にペンが落ちて付いたんだ」
「ええ!? じゃあコレわたしの所為ですかっ?」
ビシュラの顔がサーッと青くなる。
「クリーニングで落ちますかね……?」
「無理じゃないか。インクだろ」
「こ、こ、このコート、わたしのお給料で弁償できますかね……?」
それも無理じゃないか。
と、喉まで出かかったが緋は胸の内にしまった。ビシュラ自身、顔色を変えるくらいにはヴァルトラムのコートの価値が分かっている。追い打ちを掛けることもあるまい。
「歩兵長!」
ヴァルトラムとマクシミリアンの元にビシュラが駆け寄ってきた。真っ青な顔をしているから何事かと思ってマクシミリアンは眉根を寄せる。
「申し訳御座いませんでした!」
ビシュラはヴァルトラムのコートを抱き締めて深々と頭を下げた。
「わたしの不注意で歩兵長のお召し物を汚してしまいました! 謹んで弁償させていただきます!」
ヴァルトラムは黙ってビシュラの後頭部を見詰める。
「そ、それで……あの、このようなことは大変申し上げにくいのですが……で、できましたら分割にしていただきたいのですが……」
マクシミリアンはぷっと吹き出した。真剣そのもののビシュラに悪いと思って口を隠して顔を背ける。
「別に弁償なんざ要らねェ」
ヴァルトラムは溜息交じりで言った。何を深刻になっているのだとでも言うように。この男にとっては金銭でどうにかなる程度の問題など些末なことだ。
「それはオメェにやったんだ。汚すも捨てるもオメェの好きにしろ」
「ですがこんなに高価なもの……」
「じゃあやる代わりに俺の言うことを聞け。それでいいか。要するに高ェモンをタダでもらうから気持ち悪ィんだろ?」
「気持ち悪くはないですが……タダで頂戴するよりはわたしにできることならさせていただいたほうがいいです」
ザッザッザッザッ。
床を踵で叩く重厚な足音。
全身を鎧で覆った一団が足並みを揃えて部屋の中央を進んでくる。立派な装飾の施されたメタルメイル。クラシカルかつ儀礼的かつ非実用的で三本爪飛竜騎兵大隊にはない装備だ。
一人の初老の男性が先頭に立ち騎士団を率いている。その頭に兜は無く、ややプラチナがかった濃いブルーの髪の毛と皺と傷がが刻まれた精悍な顔付きを晒している。口には葉巻を咥え、端から煙を吐き出した。不貞不貞しく感じるほどの威風堂々。
初老の偉丈夫が先頭に停めてあったヴァルトラムの車の前で足を止め、メタルメイルたちもピタッと停止した。
足音が止み、静まり返る広間。
その場の視線は全て騎士団を率いる先頭の偉丈夫に集中する。だがその人物はそのようなことは毛程も気に留めた様子も無い。
ヴァルトラムの正面に立ち、唇から葉巻を離した。大口を開けて大量の白い煙をフーッと吐き出した。
「白髪の総隊長は何処だ」
慇懃無礼な言い草。だが誰も彼を責めたり反抗的な姿勢を見せたりはしなかった。天尊を敬愛しているトラジロさえも。
ビシュラはマクシミリアンに顔を近付けソッと耳打ちする。
「あの方は、どなたですか?」
「ここの主」
「あの方がグローセノルデン大公御本人ですか?」
マクシミリアンは「ああ、そうだよ」と短く答えてくれた。
甲冑を纏った蒼髪の偉丈夫――――北の大領主ヘルヴィン・グローセノルデン。
「グローセノルデン」の号を叙され、一年中雪が吹き荒ぶ厳しい大地、宏大な灰銀の雪原を所有する大貴族でありながら、アスガルトを守護するエインヘリアルに古くから名を連ねる軍閥の名家でもある。ヘルヴィン自身も数々の武功を上げており、北の所領を防備しているためイーダフェルトにはなかなか姿を現さないものの武人として名高い。
ヘルヴィンはヴァルトラム相手に一歩も引かないどころか対等に向き合っている。二人の緊張感に気圧され、ビシュラは半歩横にずれてヴァルトラムの陰に入った。
バタン。
ヘルヴィンとヴァルトラムが対面している地点よりも後方、広間の中程に停車してある乗り物の扉が開いた。中から降りてきた天尊の腕の中には毛布の塊。毛布にくるんだ「眠り姫」を大事そうに抱えて運ぶ。
「此処だ」
天尊がやってくるとヘルヴィンは表情を変えた。
「おお、ファシャオの小倅にして我が戦友。こんなクソ面白くもねェ北の地へようこそ」
「呼んだのはアンタだろ」
ヘルヴィンはあっはっはっと豪快に笑いながらヴァルトラムの横を通過し、天尊が抱いている毛布を覗き込む。
「何だ、その荷物は」
眠り姫と天尊の顔の間で視線を数度往復させた後、自分の顎に手を置く。
「お前のガキか。いつの間にこんなデカイガキ作った」
「ボケたかジジイ。俺はそんな歳じゃねェ」
彼の有名なグローセノルデン大公に対してなんという言い草。ヴァルトラムの陰に隠れて聞いているビシュラのほうがドキーンッとした。
天尊からは必要以上の悪意は感じられないし、ヘルヴィン・グローセノルデンのほうもさして気にした様子は無い。憎まれ口を叩いても笑って済ませられるような親しい仲なのであろう。
「部屋に案内してくれ。コイツを早く休ませてやりたい」
ヘルヴィンと歩き出した直後「ああ、そうだ」と天尊は何か思い出してすぐに足を止めた。振り返った天尊と目が合い、ビシュラはピクッと肩を跳ねた。
「ビシュラ。後で俺の部屋に来い」
「ハイ! かしこまりました」
当然のように命令する天尊、当然のように従うビシュラ。ヴァルトラムは微かに鼻の頭に皺を寄せる。
ビシュラの返事を聞き、天尊は進行方向へ向き直った。ヘルヴィンと何やら会話をしつつ城内のほうへと歩いて行った。
ビシュラは天尊の背中をいつまでも名残惜しそうに眺める。その姿が見えなくなってからも城内への扉をジッと見詰めていた。
「ビシュラ。アイツの部屋に行くのか?」
「後で伺います」
ヴァルトラムは独り言のように「フゥン」と零した。
「やはりまだお目覚めになっておられないのですね……ミズガルダのお嬢様」
ヴァルトラムは後ろを振り返ってビシュラの顎を捕まえた。そこまでしてやっとビシュラの視線が自分のほうへ向いた。
「そんなに気になるか。《観測所》にいただけあってオメェにも学者根性とかあんのか?」
「そのようなものではありません。心配しているだけですよ」
「アイツのモンをオメェがそこまで心配してやるこたねェだろ」
「見知らぬところに一人でやってくるのは不安ですよ、きっと」
その言葉には自身も含まれているのだろうか。《観測所》から三本爪飛竜騎兵大隊へ、真逆とも言える環境へ単身やって来た自分のことを。三本爪飛竜騎兵大隊に来なければこんなにも過酷な極寒の地を訪れることも一生なかっただろう。
折角こっちを向いたと思ったのにビシュラはすぐに伏し目がちになった。彼女は、天尊がミズガルダの少女を連れ帰ったときのことを回想していた。
Fortsetzung folgt.
吹雪で埋め尽くされた視界に大地から突き出た爪牙のような城が突如として現れる。灰白の雪原の中に聳え立つ姿は、辛い旅路を乗り越えた安堵よりも孤高の厳格さを思わせる。
中枢都市イーダフェルトを発つこと数日、三本爪飛竜騎兵大隊は目的地に到着した。彼らがやって来た目的は無論、観光ではない。課せられた任務を果たす為にやって来た。
城壁塔や鋸壁に留まっている飛竜や、天空を旋回し舞っている飛竜、地上に降り立っている飛竜もいる。騎兵隊は先んじて到着し、総隊長である天尊
背丈よりも高い雪が積もり、城へ続く道は狭い。歩兵隊は隊列を細くして慎重に進み、城門を潜って中へと導かれた。
歩兵隊が着くなりズィルベルナーが駆け寄ってきた。
キョロキョロと見回し「あれ~?」と独り言を漏らしながらマクシミリアンの肩を叩いた。
「ビシュラちゃんは? 緋姐
ビシュラ目当てで緋の近くに寄ってきたのに姿が無い。知っていそうなマクシミリアンに早速声を掛けた。
三本爪飛竜騎兵大隊には今まで年上の緋しか女性がいなかったから、年若く素直な質のビシュラが可愛くて仕方がないらしい。
「途中で歩兵長の車に乗り換えてたぞ。流石に寒さが厳しくなったからな。寧ろよく我慢したほうだ」
「歩兵長の車ってこれだろ」
ズィルベルナーは黒塗りの乗り物を指差す。マクシミリアンが「ああ」と応えると、何の遠慮もなく扉の取っ手を掴んだ。
「ビシュラちゃーん♪」
「ズィルビー、バカ! 最中だったらどうすんだ💦」
マクシミリアンはズィルベルナーの服を引っ張るが、図体だけは立派とあって力では敵わない。頭の中身は子どものままのくせに。緋は目の前で繰り広げられる男二人の攻防戦を他人顔で眺めている。
ズィルベルナーはマクシミリアンが止めるのも気にせず扉を開け放った。
ゴボォッ!
開けた瞬間、視界に飛び込んできた硬いものが顔面にぶち当たった。
ズィルベルナーは後ろに大きく仰け反り、どてんと尻餅をついた。飛んできたのは足の付いた菓子の皿。投げたのは間違いなくヴァルトラムであろう。
「誰が開けていいっつった、クソガキ」
やはり中からヴァルトラムの声。緋が中を覗き込むと、ヴァルトラムの腕の中に抱えられたビシュラが眠っていた。手には羽ペンを握ったまま。
「何だ、最中じゃなかったのか」
緋は拍子抜けしたように零した。ズィルベルナーのように無神経ではなく気を回す質の緋とマクシミリアンはそれを予想していたのだ。
「途中まで何か書類やってやがったが、もうずっと寝てんぞ」
「アンタの腕の中がよっぽど気持ちよかったんだろ」
マクシミリアンに助け起こされたズィルベルナーは面白くなさそうに「ちぇっ」と零した。
「歩兵長ばっかビシュラちゃんに懐かれてズリィな~~」
「何だ、ヤキモチか? ガキかよ」
マクシミリアンはズィルベルナーを指差して笑う。
「ビシュラちゃん着いたぜーっ」
面白くないズィルベルナーは扉をバンッバンッと叩きながら大声を出す。その行動が実に子どもっぽくて緋とマクシミリアンはアハハハと声を上げて笑う。
「あっ、ハイ! 寝てましたッ」
ズィルベルナーの声に驚いてビシュラはガバッと飛び起きた。
「申し訳御座いませんっ」
声量の所為で怒られたと思ったのかビシュラは反射的に頭を下げた。
それから急いでヴァルトラムから離れて車から降りた。ズィルベルナーにもペコペコと頭を下げるから、そんなつもりはなかったズィルベルナーのほうが申し訳なくなってしまう。
緋が車の中に顔を引き戻すと、ヴァルトラムのコートの上に羽ペンが落ちているのを見付けた。グレーの毛並みのコートに青黒いシミが一点。
「歩兵長。コートにインク」
「あァ、知ってる」
ズィルベルナーの声に驚いて飛び起きたときに手から取り落としたのだろう。
ヴァルトラムは羽ペンを拾い上げ、コートを肩から脱いでペンと共に緋に投げた。
「ビシュラに渡せ」
言われた通り緋はビシュラに羽ペンを手渡し、肩にコートを掛けてやった。ヴァルトラムにはハーフコートだったがビシュラにとってはロングコートだ。
ビシュラはヴァルトラムの顔を見て首を傾げる。
「ビシュラ。オメェ、薄いコートしか持ってきてねェんだろ。そのコートやるから着てろ」
「え。ですが歩兵長は」
「俺にゃあ別の上着がある」
ヴァルトラムがソファから立ち上がり一歩一歩歩む度に巨大な車体が揺れる。
車から降りてきたヴァルトラムは首の骨をゴキゴキッと鳴らした。長時間座ったままの体勢でいて縮こまってしまった筋肉を伸ばす。乗り物には部屋かと思うほどの充分な広さがあるがヴァルトラムの巨躯には狭かったらしい。
ヴァルトラムは腕をゴリゴリと大きく回しながらビシュラと緋の前を通過した。その後ろをマクシミリアンが付いていく。
ビシュラは緋の顔を見る。
「これ、きっととても高価なものですよね? 本当にいただいてしまってよいのでしょうか」
「まぁ、安くはないだろうな。大錫熊の毛皮だからな」
「そんな高いもの……!」
「本人がやるって言ってるんだから気にすることはない。歩兵長は金銭感覚バカだから」
「で、でも」
ビシュラの言葉を遮るように緋はコートのボタンを留めてやる。
「他に着るものが無いのは事実だろ。もらえないっていうならこっちにいる間だけ借りておけ。その薄着で外にいたら凍死するぞ」
寒さを甘く見て防寒が足りなかったのは自分の落ち度だから反論できない。此処で意地を張って体調を崩したらまた緋に気を揉ませてしまう。ビシュラは緋の提案に従うことに決めた。
見れば見るほど見事な毛皮で高そうなコート。これを簡単に人に譲ってしまえるとは、緋の言う通りヴァルトラムは金銭感覚に少々問題があるらしい。
コートを観察していてビシュラはある一点で目を留めた。
「あれ。コートにシミが」
「さっきズィルビーに声かけられて飛び起きたろ。その時にペンが落ちて付いたんだ」
「ええ!? じゃあコレわたしの所為ですかっ?」
ビシュラの顔がサーッと青くなる。
「クリーニングで落ちますかね……?」
「無理じゃないか。インクだろ」
「こ、こ、このコート、わたしのお給料で弁償できますかね……?」
それも無理じゃないか。
と、喉まで出かかったが緋は胸の内にしまった。ビシュラ自身、顔色を変えるくらいにはヴァルトラムのコートの価値が分かっている。追い打ちを掛けることもあるまい。
「歩兵長!」
ヴァルトラムとマクシミリアンの元にビシュラが駆け寄ってきた。真っ青な顔をしているから何事かと思ってマクシミリアンは眉根を寄せる。
「申し訳御座いませんでした!」
ビシュラはヴァルトラムのコートを抱き締めて深々と頭を下げた。
「わたしの不注意で歩兵長のお召し物を汚してしまいました! 謹んで弁償させていただきます!」
ヴァルトラムは黙ってビシュラの後頭部を見詰める。
「そ、それで……あの、このようなことは大変申し上げにくいのですが……で、できましたら分割にしていただきたいのですが……」
マクシミリアンはぷっと吹き出した。真剣そのもののビシュラに悪いと思って口を隠して顔を背ける。
「別に弁償なんざ要らねェ」
ヴァルトラムは溜息交じりで言った。何を深刻になっているのだとでも言うように。この男にとっては金銭でどうにかなる程度の問題など些末なことだ。
「それはオメェにやったんだ。汚すも捨てるもオメェの好きにしろ」
「ですがこんなに高価なもの……」
「じゃあやる代わりに俺の言うことを聞け。それでいいか。要するに高ェモンをタダでもらうから気持ち悪ィんだろ?」
「気持ち悪くはないですが……タダで頂戴するよりはわたしにできることならさせていただいたほうがいいです」
ザッザッザッザッ。
床を踵で叩く重厚な足音。
全身を鎧で覆った一団が足並みを揃えて部屋の中央を進んでくる。立派な装飾の施されたメタルメイル。クラシカルかつ儀礼的かつ非実用的で三本爪飛竜騎兵大隊にはない装備だ。
一人の初老の男性が先頭に立ち騎士団を率いている。その頭に兜は無く、ややプラチナがかった濃いブルーの髪の毛と皺と傷がが刻まれた精悍な顔付きを晒している。口には葉巻を咥え、端から煙を吐き出した。不貞不貞しく感じるほどの威風堂々。
初老の偉丈夫が先頭に停めてあったヴァルトラムの車の前で足を止め、メタルメイルたちもピタッと停止した。
足音が止み、静まり返る広間。
その場の視線は全て騎士団を率いる先頭の偉丈夫に集中する。だがその人物はそのようなことは毛程も気に留めた様子も無い。
ヴァルトラムの正面に立ち、唇から葉巻を離した。大口を開けて大量の白い煙をフーッと吐き出した。
「白髪の総隊長は何処だ」
慇懃無礼な言い草。だが誰も彼を責めたり反抗的な姿勢を見せたりはしなかった。天尊を敬愛しているトラジロさえも。
ビシュラはマクシミリアンに顔を近付けソッと耳打ちする。
「あの方は、どなたですか?」
「ここの主」
「あの方がグローセノルデン大公御本人ですか?」
マクシミリアンは「ああ、そうだよ」と短く答えてくれた。
甲冑を纏った蒼髪の偉丈夫――――北の大領主ヘルヴィン・グローセノルデン。
「グローセノルデン」の号を叙され、一年中雪が吹き荒ぶ厳しい大地、宏大な灰銀の雪原を所有する大貴族でありながら、アスガルトを守護するエインヘリアルに古くから名を連ねる軍閥の名家でもある。ヘルヴィン自身も数々の武功を上げており、北の所領を防備しているためイーダフェルトにはなかなか姿を現さないものの武人として名高い。
ヘルヴィンはヴァルトラム相手に一歩も引かないどころか対等に向き合っている。二人の緊張感に気圧され、ビシュラは半歩横にずれてヴァルトラムの陰に入った。
バタン。
ヘルヴィンとヴァルトラムが対面している地点よりも後方、広間の中程に停車してある乗り物の扉が開いた。中から降りてきた天尊の腕の中には毛布の塊。毛布にくるんだ「眠り姫」を大事そうに抱えて運ぶ。
「此処だ」
天尊がやってくるとヘルヴィンは表情を変えた。
「おお、ファシャオの小倅にして我が戦友。こんなクソ面白くもねェ北の地へようこそ」
「呼んだのはアンタだろ」
ヘルヴィンはあっはっはっと豪快に笑いながらヴァルトラムの横を通過し、天尊が抱いている毛布を覗き込む。
「何だ、その荷物は」
眠り姫と天尊の顔の間で視線を数度往復させた後、自分の顎に手を置く。
「お前のガキか。いつの間にこんなデカイガキ作った」
「ボケたかジジイ。俺はそんな歳じゃねェ」
彼の有名なグローセノルデン大公に対してなんという言い草。ヴァルトラムの陰に隠れて聞いているビシュラのほうがドキーンッとした。
天尊からは必要以上の悪意は感じられないし、ヘルヴィン・グローセノルデンのほうもさして気にした様子は無い。憎まれ口を叩いても笑って済ませられるような親しい仲なのであろう。
「部屋に案内してくれ。コイツを早く休ませてやりたい」
ヘルヴィンと歩き出した直後「ああ、そうだ」と天尊は何か思い出してすぐに足を止めた。振り返った天尊と目が合い、ビシュラはピクッと肩を跳ねた。
「ビシュラ。後で俺の部屋に来い」
「ハイ! かしこまりました」
当然のように命令する天尊、当然のように従うビシュラ。ヴァルトラムは微かに鼻の頭に皺を寄せる。
ビシュラの返事を聞き、天尊は進行方向へ向き直った。ヘルヴィンと何やら会話をしつつ城内のほうへと歩いて行った。
ビシュラは天尊の背中をいつまでも名残惜しそうに眺める。その姿が見えなくなってからも城内への扉をジッと見詰めていた。
「ビシュラ。アイツの部屋に行くのか?」
「後で伺います」
ヴァルトラムは独り言のように「フゥン」と零した。
「やはりまだお目覚めになっておられないのですね……ミズガルダのお嬢様」
ヴァルトラムは後ろを振り返ってビシュラの顎を捕まえた。そこまでしてやっとビシュラの視線が自分のほうへ向いた。
「そんなに気になるか。《観測所》にいただけあってオメェにも学者根性とかあんのか?」
「そのようなものではありません。心配しているだけですよ」
「アイツのモンをオメェがそこまで心配してやるこたねェだろ」
「見知らぬところに一人でやってくるのは不安ですよ、きっと」
その言葉には自身も含まれているのだろうか。《観測所》から三本爪飛竜騎兵大隊へ、真逆とも言える環境へ単身やって来た自分のことを。三本爪飛竜騎兵大隊に来なければこんなにも過酷な極寒の地を訪れることも一生なかっただろう。
折角こっちを向いたと思ったのにビシュラはすぐに伏し目がちになった。彼女は、天尊がミズガルダの少女を連れ帰ったときのことを回想していた。
Fortsetzung folgt.